カイト・カフェ

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「心にヤスリをかける」~学校がすべきこと

 最近、教師や教育関係者が不用意に子どもを傷つけて謝罪したといった新聞記事がやたら目につきます。

 道徳の授業の最中に担任が誘拐されたことにして「脅迫状」を作らせた(新聞から文字を切り取ってみんなで脅迫状を作成する)とか、幼稚園バスの運転手が昔覚えた替え歌「ドレミの歌」を「ドは毒殺のド」とか言って歌ったとか、女性教諭が名指しアンケートで「直してほしいところ」を書かせたとか、どれもこれも感心したことではありませんが、だからと言って全国ニュースで配信するほどのこともないように思うのです。

 教育はトータルな活動ですから部分をつまみ上げて糾弾されても困るのです。今挙げた例はどれもこれも口頭注意くらいでよさそうなものですが、現代の教師は一片の瑕疵も許されません。でもこれって、どう考えても正常じゃないように思いませんか。

 私は、子どもは傷つけないといけないと思っています。剥きたてのゆで卵のように真っ白で柔らかな心のまま、世間に出しては可愛そうだと思うのです。教師は世間知らずだそうですが、世の中、そんな子が生き生きと生きていけるほど甘くはなっていないはずです。

 もちろん傷つけるといったってその「ゆで卵」にいきなりザクザクとナイフを差し込むような真似はしてはいけません。私はそのことを「心にヤスリをかけろ」と言っています。

 通常のヤスリは目の荒いものから細かなものへと進めていきますが、心にかけるヤスリは逆です。目の細かなものから丁寧に磨いていき、様子を見ながら次第に荒いものへと替えていきます。もう十分強くなったと思う日まで、いつも丁寧に磨き続けなくてはなりません。もしその心が、ヤスリも耐えられないような弱いものなら布でこするところから始めることも考えます。しかし弱いまま触らず見守るようなことは絶対にしません。

 教育の趣旨と方法について、あらかじめたくさんのことを保護者や世間に知らせておくことが必要です。どういう意図で学校が動いているのか、どういう信念でそれが行われるのか。たくさんの意味ある教育を行っていれば、たまさか混入するミスや過ちも、人は許してくれるはずです。たくさんのことを話しておかなければなりません。

 ことが起こって説明するのは面倒です。説明責任は事前に果たしておけばずっと楽です。