教育の問題を「愛」を絡めて話すと難しくなる場合があります。たとえば「愛情不足」といった言葉です。保護者の方は「愛情不足だったかもしれませんね」といったりするかもしれませんが、安易に乗ってはいけません。愛情不足といわれても何をしたらいいのか分からないからです。取り返しがつかない場合もありますし、まだ間に合う場合でも、具体的な示唆を与えなければただ苦しめるだけです。親は子どもを愛するのが当たり前だという社会通念がありますし、それができないのは人間でないといわれているのと同じだからです。
1970年代の終わりから1990年代の初頭にかけて、アメリカで17人の青少年を次々と惨殺した殺人鬼ジェフリー・ダーマーの父親は、著名な数学者でした。彼は息子の死後『息子ジェフリー・ダーマーとの日々』という本を書き、その中でこんなことを言っています。
「親の愛とは、子どものために何をどれだけ犠牲にしたかということである」
私はこれを「愛」を説明する上で、非常に有効な言葉だと考えます。
人に頭を下げるのが嫌いな親が子どものために他人に頭を下げたら、それは大きな愛です。野口英世の生家は赤貧洗うがごとき貧しさでしたが、そこで野口シカが英世のために差し出す金は、それが愛です。私たちが1000円のおもちゃを子どもに買い与えるのとは愛の重さが違います。
そして現代の大方の親にとって、最も犠牲にしたくないものは時間と仕事でしょう。子どものためにそれを費やすとしたら、それが愛といえます。
参観日にいつも来てくれること、先生と仲良く懇談してくれること、休日に一緒にいてくれること、勉強を見てくれること、どんなことでもいいのです。子どもと一緒の時間を生み出すことが、現代の親の最初の愛のあり方なのだと私は信じます。
では参観日や懇談会のない普通のときはどうしたらよいのか。
それは簡単で、子どもと一緒に遊べばいいのです。子どもが小さなときは公園やら博物館やらに出かければいいだけです。少し大きくなったら、映画に連れて行ったりスキーに行ったり、釣りに出かけたり、社会体育の応援に行ったりと、やることはいくらでもあります。
小学校の、特に低学年の先生は寸暇を惜しんで子どもと遊ぶ時間を持ちます。経験的にそれが大事と分かっているからしているだけなのかもしれませんが、やっている意味は同じです。子どもと一緒に遊び、子どもと一緒にいることを楽しむ、その姿が子どもたちを安心させ、自己効力感を高めているのです。
「私と一緒にいることを、この人(親や教師)はほんとうに楽しんでいる。私にはそれだけの価値があるのだ」
「お母さん、子どもともっと遊んでやってください」というのは、そういう意味です。