カイト・カフェ

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「音楽の先生には特別な地位が与えられている」~音楽集会で思い出したこと

 音楽集会のレベルの高さに舌を巻きました。普通の公立学校の普通の生徒の合唱としたら、ほとんど全国レベルでしょう。呆れました。大したものです。

 学校教育の場において、音楽と体育は特別の地位を誇示しています。小学校では音楽会や運動会、中高だと合唱コンクールにクラスマッチ、音楽科と体育科の先生は大忙しです。それに比べたら私の専門の社会科なんていたって不人気で、社会科コンクールだの社会科クイズ・クラスマッチだの、聞いたことがありません。

 もっとも体育の方は知・徳・体とか言って学校教育の三本柱の中に入っていますから最初から高い地位を与えられていますが、音楽の方はいつの間にか、特別の地位に上ってしまった感じがあります。それは経験的に私たちが、音楽(特に合唱)に特別な教育的効果を感じてきたからに他なりません。

 心の開かれていない児童・生徒は、決して大きな口をあけて歌ったりはしない。友だちを信頼しなければ大きな声を出せない。自分自身を信じなければきちんと歌を歌えない。そうしたことは長く教員をしていると自然に分かってくることです。

 それぞれのパートをきちんと歌い上げることが全体の曲を決定すること。自分だけが目立とうとせず、自分だけが引き下がりすぎもせず、全体に心と耳を傾け、調和を取っていこうとすること。そうしたことはすべて人間関係を円滑に送っていく上で大切な資質です。したがって音楽教育は一面で道徳教育そのものなのです。

 その合唱において、あれだけのことができるのですから、この学校の生徒と先生方は大したものです。伝統を引き継ぐ者として、身の引き締まる思いがします。

 もうひとつ。
 音楽室の環境の豊かなのにも感心させられました。昨日の絵の話もそうですが、この学校は、校舎は新しいのに教室環境の中には古くて良きものがたくさん残されています。子どもたちの音楽を見下ろす位置に、バッハだのヘンデルだのの肖画がぐるっと一巡りしているのは素敵なことです。肖像画自体はどの学校の音楽室にもある風景ですが、ぐるっと一回りというのはそう多くないように思います。

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 ベートーベンやモーツァルトは見慣れていますが、バルトークだのショスタコーヴィッチだのというと珍しくなるでしょう。
 私はプロコフィエフのファンなのですが、プロコフィエフがあんな禿げたおじさんだということは初めて知りました(なぜ今まで調べなかったのだろう?)。
 そう言えば今日、4月22日はプロコフィエフの誕生日(1891)だそうです。