昨日の報道番組「サンデー・モーニング」で、先週、東京の高円寺駅で起こった女性転落事故についてあつかっていました。酔って線路に落下した女性を、若い男性がとっさの判断で救ったという話です。
その番組の中で、「人間には他者を助けようという愛他精神が組み込まれている。しかし『他人とは関わらない』といった都会のルールによって、無我夢中といった特別な状況でない限り、愛他精神は生かされないようになっている」といった分析が語られていました。
私は前半(人間には愛他精神が組み込まれている)には賛成しますが、後半の(都会のルールが愛他行動を疎外している)には不賛成です。人間はそれほど悪者ではありません。
番組の中でも紹介されていましたが、人は助けるべき人間が自分しかいなければほぼ100%助けるのです。それが人数が増えるに従って「誰かがやってくれるはずだ」という気持ちに動かされ、愛他行動の発動が遅れるのです。私たちには自己を守ろうとする本能がありますから、他に助けてくれる人がいそうな状況だと身体は動かないのです。しかし大切なことは防衛本能ではありません。人間には愛他精神が組み込まれているということです。
1999年の暮れに自衛隊機が埼玉県狭山の入間川河川敷に墜落するという事故がありました。二人のパイロットは戦闘機を人家に落とさないためにぎりぎりまで脱出をためらい、河川敷に落ちる事が確実になってから脱出装置を働かせたために結局間に合わず亡くなりました。
この事故について、近くの狭山ヶ丘高校の校長先生が学校通信に一文を載せ、それがネットを通じて全国的に広められました。
「人間を矮小化してはならぬ」と題されたその文の中で、校長先生はパイロットたちの偉大な決断を讃えたあと、
「他人の命と自分の命の二者択一を迫られたとき、迷わず他人を選ぶ、この犠牲的精神の何と崇高なことでしょう。皆さんはどうですか。このような英雄的死を選ぶことができますか」
と問いかけます。この文の一番優れた部分は次に来ます。
「私は、おそらく皆さんも同じコースを選ぶと思います。私も必ずそうするでしょう。実は、人間は、神の手によって、そのように作られているのです」
私たちは他人の業績を誉め讃えるとき、つい「私たちにはできませんよね。でも一歩でもそれに近づけるよう頑張りましょう」といった方向に話を持って行きがちです。しかしそうではないのです。私たちの心の中には、美しいもの、優れたもの、喜ばしいものが山ほど詰まっているのですが、それが行動に移せないのは機会がなかったり、経験が浅かったり、ちょっとした勇気がなかったりするだけなのです。
その時が来れば、人は他者のために進んで自分の身を捧げるはずです。私はそんなふうに子どもと接して行きたいと思います。