「現代は、どこの大学を卒業したかでは人生は決まらない。どこの家に生まれたかで決まるのだ」
半ば冗談で、半ば本気でそんな言葉を繰り返してきたのですが、この言葉、思った以上に重い言葉であるような気がしてきました。
昔の子どもだって、サラリーマンと農家、商家と職人の家ではそれぞれ異なった人生を歩むよう運命づけられていました。しかし人間性だとか社会性だとかいった意味では、そこそこ似たようなものに育てられていたはずです。それは地域子ども社会や学校社会が、子どもを均一のものに育てようと、強力な力を働かせていたからです。
ところが今は個性が大切にされる時代です。
“個性”と言ったって『人』の『固い』、『心』の『生き方』(それを合わせると『個性』になる)が普通の子どもにあろうはずがありません。結局、個性に見えるものは「その子の家庭のあり方」でしかないのですから、その子の背負っている家庭のあり方が大切にされ、その子らしさとして育てられてしまいます。
勉学を重んじる家風の家の子はそのように育ち、ずるいことを平気でする家の子はそのように育ちます。
学校は基本的な人間のあり方を「知らせ」ますが、もはや「鍛える」とか「叩き直す」ことをしませんから(それは個性を潰すことです)、その子に生まれながら与えられたものを変更することはできません。
そう思っていくつかの家を比べるとき、神様の気まぐれによって『あの家』に生まれたあの子と、『この家』に生まれたこの子の差に、愕然とせざるをえません。
あの子には最初から心豊かな人生が用意され、この子はあっという間に悲惨な人生にはまり込んでしまう。
昨日、私はある二人の子の家庭を見比べ、そのあまりの不公平に暗澹たる気持ちにさせられました。