カイト・カフェ

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「”お悔やみ申し上げます”と言わざるを得ない日」~悔やみを共有すること

 知り合いの16歳の若者が、何の前触れもなく突然亡くなりました。これほど若い人の死に出会うのも初めてなら、それが息子の友だちで、小さな時から成長の様子を見てきた子となればなおさら心が揺れます。しかしこれについては、あとでゆっくりと考えることにしましょう。

 今、私の息子は、大型連休に一緒に遊ぼうと誘われたのに忙しくて断ったことを悔いています。結局、向こうでは友だちができなかったみたい、同じ学校に進学していればオレが友だちでいてやれたのにと、そんなことも悔いています。

 さて、昨日は日常のあいさつ無意味について書きました。しかし非日常のあいさつには、そうでないものも多くあるのかもしれません。

 人の死に出会うと、どんなに手を尽くしたという思いがあったにしても、どこかに悔いが残ります。ああもしてやれた、こうもしてやりたかったと悔い、つまらぬ一言を言ってしまったと悔い、たった一言が言えなかったと悔いる。そしてそんな悔いをたくさん残したことを、また悔やむ。

「お悔やみ申し上げます」は、そうした悔いを残した者同士が、「ともに悔いを共有し合いましょう」「慰めあうのはずっと先のことにして、今はひたすら悔いを噛み締め合いましょう」と、そんな思いをことばにしたものだと思われます。悲しいですね。

 さほど深い関係を持った子ではありませんが、私も私なりに悔やみを噛み締めたいと思います。