自分に手を焼く子どもたち

 私たちが子どもに手を焼くように、子ども自身が自分に手を焼いている場合があります。

 自分が悪い、自分の考え方一つで何とでもなると百も承知で、しかし素直になれない、うまく行かない、誰かのせいにしたい。

 そんなことを口や態度に表すと、親や先生や友達が駆けつけてきて、一つひとつ丁寧に扱ってくれるのだが、そんなふうに一つひとつ潰されるのがかえってたまらない。私の訴えていることは全部本当なのだが、全部潰されてもそれで気が晴れるわけでも、問題が解決するわけでもない。私が訴えたいことはたぶん別のことなのだが、それが分からない。

 いわば赤ん坊がパニックになって泣きまくっているようなものだから、どんな手を打っても泣き疲れるまで収まらない。ただし赤ん坊と違って、小学校の高学年や中学の子どもが暴れると、本人にとっても周囲にとっても被害は甚大です。

 こんなときどうすればよいのか。

 一つは、神のように偉大で強大な担任が、怒鳴りつけ、泣くのを押さえ、それからゆっくりと行くべき道を指し示せばいいのです。そして常に、生きる道を示し続ける。たぶん、スポーツの世界にはそんな指導者がたくさんいます。

しかし現代の学校ではそんな教師はなかなか生き残れませんし、子どもも大人に対する「基本的な恐れ」というものを失っています。

 第2の道は、その子の言う「私が訴えたいことはたぶん別」の、その内容を言語化してやることです。言語化というのは曖昧なものを目に見えるかたちにすること、いわば霧を凝縮させて水滴にしてしまうような作業で、とうぜん体積は極端に減ります。

 本当は担任がやって上げられれば一番いいのですが、すでにさんざん暴れまくって素直でない関係をつくっていますから、素直に話すなどとてもできない場合が多いのです。学年の、他の先生の出番ですね。