カイト・カフェ

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「南無・・・」~心の中に神や仏を宿している人たちの祈り

 学校を出たところにある交差点の角に、いくつかの石碑が建っています。そのうちの一つには「南無〜」とあり、停止線の位置からはその下が読めないのですが、まず間違いなく「阿弥陀仏」と書いてありそうです。

 「南無」というのは「南がない」という意味ではなく、サンスクリット(古代インド語)の「ナマス」または「ナモー」を中国語に音写する際に採られた漢字です。意訳すると、帰命、帰依、つまり命を捧げる、それほど大切に敬うという意味なのです。
 仏教の世界では、キリスト教の「アーメン」のように繰り返し使われます。

 浄土宗や浄土真宗系列諸派では阿弥陀仏につけて南無阿弥陀仏(なむ・あみだぶつ)、日蓮宗では南無妙法蓮華経(なむ・みょうほうれんげきょう)と唱えます。真言宗では南無大師遍照金剛(なむ・たいしへんじょうこんごう)と言ったりします。

 時代劇で武士が「南無三(なむさん)」と唱えるのは、南無三宝(なむ・さんぽう=仏、法、僧)のこと、とっさのおまじないとして使用されたりもします。

 かつて、仏教は人の生活とともにありました。人々はしばしば「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」を唱え、危機が迫ると「南無三」とか「桑原桑原」とか言ってひたすら何かを拝んだはずです。

 そうでない人もいたかと思いますが、心の中に神や仏を宿している人たちは、今の私達とは根本的に生き方が違ったのかもしれません。

 街角の道祖神や石碑・石仏を見ると、ふとそんなことを考えたりします。