「何のために勉強するのか」という子どもたちの問いかけにきちんと答え、それを子どもたちが納得すればきっと勉強するようになる、私たちにはそうした思い込みがあります。また、それにきちんと答えていない自分たちに、ある種の後ろめたさを感じたりもしています。
しかし、福沢諭吉が「学問ノススメ」を書いた時代、あるいは「いい高校から、いい大学に、そしていい企業に勤めれば幸せになれる」と言われた私たちの子ども時代(当時、豊かさは幸せの必要条件でした)とは異なり、すべての児童生徒が納得するような「勉強する理由」は、なかなか見出すことができません。しかし翻って、子どもたちは「何のために勉強するのか」を理解しない限り、勉強しなくていいのでしょうか?
その問いに答えのあるなしに関わらず、子どもは勉強しなければならないと、私たちは感じています。だとしたら「何のために勉強するのか」の答え探しよりも、他にすべきことがあるはずです。
問い返すべきは「なぜ私たちは教えなければならないのか」ということなのかもしれません。
親が子に躾をしたがるのはなぜなのか、
商家で息子に商売を教えたがるのはなぜか、
そして私たちが道徳や算数や国語の授業で、子どもたちにさまざまなことを教えたくてしょうがない(子どもたちに学んでほしくて仕方ない)のはなぜか、
という問いです。