カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「できなくてもいいとは言えない」~幼い時ならともかく

自分の子どもとスキーをしたいばかりに、38歳にして初めてスキー場に行きました。それからしばらく相当に熱心に頑張ったのですが、未だに「スキーは滑れます」程度で、上級者コースなどはビビッて降りられません。
 そうこうしているうちに子どもも大きくなって、スキーすること自体がなくなってしまいました(子どもたちはスノーボーダー)。

 スキーが上達しなかったのは、もちろん年齢的な運動能力の問題もありますし、子どもと違って怪我も中途半端ではないという恐怖感のせいでもあります。
 しかし、何より決定的なことは「いい年をしてカッコウ悪いことはできない」といった、いかにも見栄っ張りらしいつまらない理由にあります。いかに初心者とは言え、この年で足をおっぴろげたボーデンでゲレンデを降り下ることはできないのです。

 さて、以前は学校でスキー教室があると聞くとあわててスキー場に連れていたり、竹馬をやるというと、学校で渡す前に買い込んで必死に練習したりする親がいて話題になったものですが(お母さん、学校で習うのだかいいんですよ)、最近は逆のケースにしばしば出会います。
 学校でうまく行かないので「ウチでも少し練習してください」と言ったりすると、「無理はさせたくありません」「無理強いして嫌いになっても困ります」「長い目で見てやってください」といった類の要望がどんどん出されるようになったのです。

 子どもを鍛えようとすることへの抵抗なのか、
 親が頑張らなければならないことへの抵抗なのか、
 とにかく子どもが苦しむのは見たくないということなのか・・・・・・。

 しかしこうした子について、私たちはいつまで待ち、いつまでそっとして置いたらよいのでしょう?

 小学校4年生で掛け算九九が覚束ない子は、算数の授業がとても苦痛なはずです。
 5年生5メートルしか泳げない子は、水泳の授業に出ることが大変です。
 高学年で教科書の文がたどたどしくしか読めない子は、国語の時間をいつも怯えながら受けなくてはなりません。
 できないことが恥ずかしくないのは、今しかないのです。

 鷹揚に構えすぎている保護者には、そうしたことを伝えていかなくてはなりません。人より上である必要はありませんが、あまりできないと、生きることはその子にとって地獄のようにつらくなることもあるのです。