カイト・カフェ

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「加害者の内なる被害者意識」~いじめる側にもワケがある

 「いじめられる側が悪いと言うことは絶対にない。いじめる側が100%悪く、いじめられる側の責任はゼロである」
 いじめに関する一斉を風靡した考え方です。

 私は、人間関係に100対0というものはないと信じていますが、「いじめられる側は絶対に間違っていない」という考え方は多くの人の支持を集めました。これを第一の定理と呼ぶ事ことにしましょう。
(但し、いじめの指導の最中に、『いじめられる側にも責任はある』と言ってはいけない、そうした概念を交えると問題が厄介になるという考え方には賛成します)

 最近流行の第二の定理は「いじめはしばしば一夜にして、いじめる側といじめられる側が入れ替わることがある」というものです。これは私たちも何度も目にしてきたことです。

 ところで、世の中の人たちは、この第一の定理と第二の定理を、どう矛盾なく心に納めているのでしょう?
 いじめる側といじめられる側が一夜にして替わることがあるが、いじめられる側は100%悪くない
ということですから。

 さて、第一の定理は忘れて、しばらく第二の定理について考えてみましょう。
「いじめはしばしば、一夜にして、いじめる側といじめられる側が入れ替わることがある」
 これの意味するところは、いじめられる側もいじめる側も全く同じ性質を持っているということです。そしてその性質のひとつは、明らかに被害者意識です。

「自分もやられたのだから当然やり返す権利がある」
「こんないやな思いをするのは、みんなアイツのせいだ」
 そういった思いが、自らの残酷な行いを見る目を曇らせます。
 悪いことをしているという意識は薄れ、時には正義を行っている気分になったりもします。

 残酷ないじめの背景には、常にこうした加害者側の被害者意識があることに注目しなければなりません。
 また、昨日お話した精神的自立の指標「人のせいにしない、特に親のせいにしない」も、いじめる人間について考えるとき、大いに参考にしなければならないことかと思います。