カイト・カフェ

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「子どもの意思を尊重することに関する覚書」~ただ題字にするだけではダメだろう

 子どもの意思を尊重するにも程があると思うことがあります。これはそのことに関するメモです。

  1. たかが十数年しか生きてこなかった子どもの意思と、数十年を生きてきた大人の見識は平等に扱われるべきものか?
    たとえば子どもが「高校に行かない」と決めたとき、その判断の基となった材料や判断基準は、「高校に行ったほうがいい」という大人の判断材料や基準と同じ深みや重みがあると考えていいのか。

  2. 「子どもの意思」というものを、少なくとも数年は持続する不変のものと仮定していいのか? 今日のその子の気持ちをかなえることが、数年先の子どもを裏切ることにはならないか。簡単に言えば、子どもというものは決して後悔しない存在なのか。

  3. 夏休みに海に行くか山に行くかといった、どちらに転んでもいい場合ならいいが、高校に行くとか行かないとか、機械科にするか商業科にするかとか、宿題をやるかやらないかとか、そもそも小学校や中学校に行くとか行かないとか、そういった人生に関わる重大な問題で、十分に練られていない未熟な子どもの意思を尊重しその通りにするとしたら、それは結局、「勝手に決めれば。でも、責任は取らないからね」と子どもを突き放しているのと同じではないか。10歳前後で自分の人生の全責任を取らされたら子どもが可愛そうではないか。

 子どもが何か重大なことを決定するとき、あるいは何も決めないことがそのまま決めたと同じになってしまいそうなとき、
 親だったら真剣に子どもにかかわり、共に深く考え、とことん突き詰め、十分に練り上げ、もうこれ以上何も考えることはないというところまでいって初めて「子どもの意思」は尊重されるべきだ。
 親だったら膝をつき合わせてそこまでやるべきだし、子どもの人生の責任を、半分くらいは引き受けてもよさそうなものだ。
 何でも「子どもの意思だ」といって言いなりになりたがる保護者に対して、私はそういう言葉を心に置いて、話をして行こうと思いました。