核となること


 子どもを伸ばそうとするとき、全部を高めようとする必要はありません。伸びそうなところをちょいとつまんで引き上げてやれば、あとはすうっとついてくるのです。

 初めて持ったクラスが大荒れに荒れて大変苦労しました。

 そうなると多くの先生方がたくさんのアドバイスをくださり、そうした親切に応えようとして全部をやってみるので、さらに学級は混乱しました。中には矛盾するものもたくさんありましたし、何より、小出しにしてはやめるという気まぐれが、生徒を迷走させたのです。

 その結果分かったことは、自分に合わないことはやってはいけない、ということです。とにかくそれは長続きしません。先生方のアドバイスは同じ目的に向かう別々の道であって、それぞれが自分にあった道を選んでいたに過ぎないのです。

 自分にあっているというのはどういうかというと、それはそれぞれが持っているこだわりに適合するかということです。

 たとえば、私は小さなころから食事を残さない(残せない)家風に育ちました。したがって給食が残されることに対する抵抗感がとても強いのです。私のような人間は、給食指導を中心に学級をつくるととてもうまく行く可能性があります。

 逆に、私は小さなころから整理整頓が苦手で、部屋が散らかっていることがまったく苦にならないたちでしたので、こういう人間が、清掃を核にしてもさっぱりうまくいきません。

 授業を核にするのはとても良いことですが、国語のように毎日ある科目ならいいのですが、そうでない場合は、社会科と算数といったふうに二科目組み合わせて、この二つの授業だけは完璧に近づけようと努力します。

 中学校の教員でしたので、私の場合は専門の科目、そして道徳に努力を注ぎ込みました。

 給食指導はうまくいきそうだったのでがんばりました。

 それ以外には、朝の会で何を話すか、これに一番力を入れました。

 清掃やその他の特別活動はまったくダメでしたが、そこまで手を伸ばす力はありませんでしたから、我慢しました。

 おそらく、そのやり方は正しかったはずです。