カイト・カフェ

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「恥の文化を守る」~自分のやるべきことを他者にやってもらうのは恥ずかしいことなのだ

 有名なルース・ベネディクトは著書「菊と刀」の中で日本の文化を「恥の文化」と名づけヨーロッパの「罪の文化」に対置させました。そして他律的な「恥の文化」では正義より名誉が優先され、個人の道徳心は、他者により左右されてしまうと問題視しています。しかしどうでしょう?
「罪」には罰があり、だからこそ悪いことをしないというのは、それも他律的です。いや、むしろ激しく自己懲罰的という意味では、恥の文化こそ自立的とも言えます。

 農家の人が田を美しく保つのは、生産を上げるという実利的な側面とともに、田をいい加減に扱うことを恥だと考えるからです。そこには「罰がなくとも自らなす」という美しい伝統があるはずです。

 さて、雪の日、大人が掻いてつくった道を、子どもたちが平然と歩いてくる姿を、私は憎みます。それを当然のごとく感じる姿がいやなのです。大雪の日はいっそのこと始業を2時間早め、地区の担当教師が現場に出かけて2時間の雪かき作業をさせ、それをもって授業とすればいいと、本気で考えます。
 自分の家の前に雪が残っているのは、恥ずかしいことなのです。自分が歩く道を他人につくってもらうのは恥なのです。そういった高級な道徳観を、早い時期に身につけさせたいものです。

 さて、落ち葉のシーズン。庭には大量の落ち葉が舞い、近隣の家々に入り込んでいます。私たちの学校から出た落ち葉が他人の家に入り込み、それを善意の他者が片付けてくれているのです。やはりそれは恥だと思わなくてはなりません。人間としてやってはいけないことだと感じなくてはなりません。

 庭掃除担当の先生や子どもたちはそれを感じています。なぜなら自分たちのやるべきことを他者がやっていることを知っているからです。
 しかし校舎の中にいる人間は違います。その点、どうしても甘くなるのです。

 自分のやるべきことを他者にやってもらうのは恥ずかしいことなのだ、自分の家から出たものを他人に始末してもらうことは恥ずかしいことなのだ、学校から出た落ち葉はいち早く学校が片付けなくてはならない。そういうことも、子どもたちには教えておきたいものです。