カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「さまざまな表現者たち」~ものを言う人・言わぬ人、言いたくない人、翻訳の必要な人

 教員同士の会合でしばしば司会を頼まれます。最初の頃はそれが辛くて辛くて本当に切なかったのですが、あるときから突然気が楽になり、苦にならなくなりました。それは参会者の99%までが、言うべき何事かをもっていると確信するようになったからです。教員というのは、そういうものなのです。
「教師五者論」(*1)の中にも「役者であれ」と言われるように、私たちは常に表現者であることを強制され、どんな時にも何事かを言えるように訓練されています。さらに児童の作文指導や表現活動を通して、常に何ごとかを言葉にする方策というものを練っています。ですから、司会で困ったら誰かに適当に指名すれば、必ず何かを語り、話を接いでくれます。

 しかし世間は必ずしもそうではないでしょう。ご近所会などでうっかり間違って指名でもしたら、「恥をかかされた」と一生恨まれることだってあります。
 なぜそんなことを考えるのかと言うと、私は最近、保護者のクレームや不満、非難や苦情に対して、あまりにも生真面目の対応するのはそれ自体が間違いではないのかと思うようになったからです。生真面目な対応というのは、例えば「そんな言い方をしたら子どもを傷つけるでしょ」と言われて、そんな言い方をしないよう精一杯気を使ったりするような対応のしかたのことです。

 もちろんそれだって大切ですが、その人の本当に言いたいことはそうではなく、「もっとウチの子を大切にしてよ!」ということなのかもしれません。いや、きっとそうです。
 保護者の言葉というものは、もしかしたらいちいち翻訳しながら聞かなければならない、そういうものなのかも知れません。そのもの言いの一つひとつに傷つくことなく、優しい言葉に翻訳して真意と向き合えば、案外、和解の道は見えてくるのかもしれません。
 そんなふうに思うのです。

*1:教師五者論

  1. 自分の専門分野の学問に通じた「学者」であれ
  2. 生徒の顔色を見て健康状態を把握できる「医者」であれ
  3. 生徒それぞれがもっている長所を見抜き、それを育てる「易者」であれ
  4. 生徒を引きつけ、楽しい授業を展開できる「役者」であれ
  5. 一芸は百芸に通ずと言われることより、教師自身が一芸に秀でた「芸者」であれ