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「学力の国際比較の問題性とこれからの日本の教育」~教育をほんとうに殺してしまわないために


【教育のベースが違うものを比較することにどういう意味があるのか】

 学力の国際比較について言えば、私は大きく三つの問題点があると思います。

 ひとつは教育のベースが違うものを比較することにどういう意味があるのか、ということです。
 例えば、日本は世界最低レベルの教育予算で学校を運営しているということ。この少ない予算のために40人学級という他の先進国に例を見ない巨大学級を維持しなえればなりません。
 日本を下回る教育費世界最下位の韓国は、しかし家庭が負担する教育費(主として学習塾に支払う金)がべらぼうに多く、全体としては世界と戦える額になります。日本の家庭は韓国ほど教育に金を使いませんから、公費私費合わせても最低レベルのままです。

 また、日本の場合、いわゆる主要5科(小学校では4科)にかける時間が余りにも少ない、という特殊事情があります。
 学校で過ごす時間の半分以上を、いわゆる「その他の時間」に費やしているのは統計上日本だけです。その中身はというと、例えば美術です。音楽や家庭科が主要5科の時数を奪います。そしていわゆる「心の教育」に奪われる時間が大量にあります。

 私は先日、小学校の縄跳び大会を見る機会がありました。一人が一回ずつ跳んで後ろに回る大縄跳びです。すごいクラスは400回を越えてしまい、時間切れで終了です。

 この大縄跳びというのは良くできた運動で、クラス全員が跳ばなければならない宿命を背負っています。スポーツの苦手な子にはストレスでしょうね。自信がなくても「勇気を振り絞って」跳ばねばならない。回数が増えてくると今度は「自分の番の時に縄を止めてしまうのではないか」という恐怖と戦わなければならない、戦いながら跳ばなければならない・・・。
 ではスポーツの得意な子にとっては気楽な競技かというとそうではありません。
 もちろん自分は成功するに決まっている、その上で真剣に友だちを応援しなければならない、真剣に励まさなければならない、どんないやなヤツでも精一杯声をかけなければならない。そして誰かが失敗したとき、それがどんな場合であろうとも失敗した子を責めず、進んで迎えなければならない・・・。
 自分の力で何とかなるものならまだしも、他人の失敗も喜んで受け入れなければならないというのは人生そのものです。
 これが心の教育なのです。

 遠足も体育祭も修学旅行も生徒会も、すべては人間として集団の中に生きるためにやっているのであり、単に遊んでいるわけではありません。
 こうした教育に大量の時間を振り向けながら、同時に学力世界一を目指すというアクロバティックな教育を期待されている国はほとんどないでしょう。

【学力問題について何をしたら良いのか分からなくなっている】 

 第2に、私たちが学力問題について何をしたら良いのか分からなくなっているということです。
 政府もマスコミも「学力低下」「学力低下」と叫びながら、日本の教育に明確な「学力」の定義さえ与えていません。具体的な目標も与えていません。

 ですから「学力低下」が問題だと言われる現在でさえも、学校の三分の一は「生きる力」をつけるために必死の努力をし、三分の一が計算ドリルやら漢字練習やらをやらせています(漢字と計算力で国際比較を勝ち抜けると言う保障はありません。少なくとも、イギリスやアメリカと漢字で戦うことはないと思うのですが)。後の三分の一は右往左往しています。

 政府もマスコミも実はたった一言、こう言えばいいのです。
「他の教育はしばらく横に置いて、日本の義務教育は、国際比較で全科目において世界一を目指す!」

 そういった瞬間から5年以内に日本は世界一を獲得できます。
 日本の教員は恐ろしく優秀でよく働きますから必ずそうなります。しかしその上で「いじめ」も「不登校」も「食育」も「地域との連携」も「消費者教育」も「少子化問題」も「キャリア教育」もと言われても困ります。とにかく人間も時間も足りないのですから。

 意外に思われるかもしれませんが、私たちの仲間はTIMSSやPISAでどんな問題が出て誰が受験したのか、誰も知らないのです。私は意図的に問題が学校に回ってこないようにしているのではないかと疑っています。なぜなら、それを渡した上で「学力!」「国際比較!」と叫ぶと、日本の教育が一斉にそちらに走ってしまい、世界一を取り戻すとともに未曾有の青少年問題が沸騰すると、本気で心配をする人がいるのではないかと思うからです。

 確実に言えることは、社会に影響力を持った人々は、学力の定義とか学力を中心にすえた上での具体的目標、といったことに手を染めたがらないのです。だからいつまでも、日本の教育は迷走しっぱなしです。

 

【子どもに負担を負わせることなく成績を上げるという不文律】

 第3に、子どもに負担を負わせての学力向上はしない、という非常に強い不文律があることです。
 かつて不登校や非行の原因は学力中心主義と管理主義のためだと言われた時代があります。プロ教師の会などは必死に抵抗しましたが、学校からは管理が消え自由がどっと押し寄せてきました。学力中心主義も相当是正されましたが、緩和はむしろ少子化によって進みました。
 今、学力問題が急務と言われながら、国家も社会もこれを教員の資質向上という、可能性があるかないか分からないようなものにしか解決策を見出せません。韓国や台湾のような異常な受験主義は嫌だ、シンガポールのようの小学校4年生で人生が決まるようなやり方もダメだ、フィンランドのように金は使えないとなれば、教員を叩くより方法はなくなります。
 ただし、CO2の削減と同じように、教員の資質向上については、もうそろそろ限界です。競争率30倍といった厳しい採用試験をくぐりぬけてきた人材を、一年間研修漬けにしても(世の中から見れば)「この程度」なのですから、叩いても無駄でしょう。

【私たちの取るべき二つの道】

 さてそうなると私たちにとるべき道はないのでしょうか?

 私は、日本の進むべき道は二つあると思います。
 教育再生会議は思い切った改革案といいながらあの程度のものしか出せませんでしたが、私の方は本当に思い切ったアイデアです。
 それは教員を2割、およそ2万人増員することです。これで教育問題の半分以上が解決します。

 その2万人をチームティーチングに入れ、日常の授業を支えます。
 こういう教員がいると授業を荒らす子どもが出ても全く問題はありません。現在だとその子を外に出せば「学習権の侵害」ということになりますがTTの先生がいればその人と一緒に出せばいいだけのことです。勉強が極端に遅れた子にもTTを当てます。

 新規採用の教員はまずTTからスタートさせます。指導力不足教員の半数は新規採用ですからそれだけでも指導力不足半減です。
 また中年以上の指導力不足教員の多くはトラウマによって人間関係が分からなくなった人たちです。学級経営では困難がありますが、教え方には優れた人も少なくありません。あるいは教科教育もだめだという場合であっても、教員の世界には山ほど仕事がありますから、授業に行かず、修学旅行の計画を立てたり下見に行ってもらえばいいのです。

 20万人の教員を増やすための財源はたった1兆円増税で済みます。かつて湾岸戦争の折には135億ドル、現在の円レートで1兆6千億円もを増税で払って、何の感謝もされなかった国です。前首相が米百俵の話をぶち上げ、現首相が「国民総がかり」を標榜する以上、1兆円の増税くらい安いもの。外国での人殺しに使うよりも国内の教育に使うほうがよほどマシです。
 しかしそれも払わないとしたら・・・。

 第2の道は何もせず、時に任せることです。
ゆとり教育』がそうであったように、これまでの教育改革やればやるほど悪くなります。今日上げられている教育改革を完全にやってしまったら、教員の技量と使命感だけで保っている日本の教育は完全に死んでしまいます。
 ニーチェの言葉を借りれば「教育は死んだ・・・私たちが殺してしまったのだ」と、そんな風になりませぬように。