最近、「時代の閉塞感」という懐かしい言葉がしばしば聞かれるようになりました。何とはない行き詰まり感というか、動きの取れなさみたいなものです。使う個人によってニュアンスの違いはあろうかと思いますが、私にとってそれは「正義の重苦しさ」です。
たとえばそれは「すべての子どもに高い学力を!」
もちろん「すべての子どもに東大へ入れるだけの高い学力を」といった無体なことを要求する人はいないと思いますが、この「高い」のレベルをどこまで下げたら現実的な話になるのか、世間の人々と私たちの間には大きな落差がありそうです。
「せめて小学校の問題くらい、卒業のときは全員が解けるようになっていなければならない」
可能でしょうか?
さらに「すべての子どもは、苦しみや辛さから解放されるべきだ」。
もちろんその通りです。しかしこの正義が前述の正義と組み合わさって「すべての子どもは、苦しんだり辛い思いをすることなく、高い学力をつけられるべきだ」ということになったらどうでしょう?
また、これについてかつての文部省の官僚のひとりは「先生がします!」と鮮やかに述べていますが、これもいかがでしょう?
こうした正義の複合について、私は新聞紙上ですばらしい言葉を発見したことがあります。それは次のような文です。
「世の中は正義だらけです。したがって『みんながそれをきちんと守ったら、人は幸せになれるだろうか』という観点を失えば、私たちは正義に振り回されることになる」
まったくその通りです。