相互不信の社会


 銃の絡む血なまぐさい事件が日米の双方でありました。長崎では平和主義の象徴のような人が殺されたわけですから一瞬政治テロかと思いましたが、今朝のテレビではロクでもない動機が報道されています。動機と結果の不均衡(この程度のことでこうなるのか?)という問題はきわめて今日的なテーマですが、詳細の解明はこれからからですのでしばらく様子をみましょう。

 アメリカの事件について、こういう事件があるといつも話題になるのは「どうして銃規制ができないのか」という問題です。それについて昨夜のNHKニュースは「結局それはアメリカ人の相互不信のためだ」といった説明をしていました。「銃さえあれば最後は自分を守れる」という間違った安心感が、銃を取り上げられない最大の理由だというのです。

 さて、私たちが今育てている子どもは、生まれたその日から徹底的に守られつくしてきた子たちです。登下校を教員や防犯ボランティアや警察に守られ、写真を撮られた、声をかけられたというだけで全県に警告メールが配信される中で成長して行く子たちです。

保護者の一部は今朝も「もしかしたら今日、この子は学校でイジメられ死んでしまうのではないか」と慄きながら子どもを学校に送り出しています。中学校では部活に行ったらわが子は殺されてしまうのではないかと怯えている保護者もいます。土日の休日、子どもが外に出て不審者に連れて行かれるよりはと、ふんだんにゲームソフトを買い与え、子を一歩も外に出さない覚悟を決めた保護者もいます。家に遊びに来た友だちにイジメられるのではないかと30分ごとに子ども部屋に顔を出す母親、買い物の最中もしっかりと子どもの手を握っていないと安心できない保護者・・・。

そんな中で育てられた子どもたちが大人になったとき、どういう社会が訪れるのか・・・。そういった観点からも、教育というものは考えておかなければならないと思いました。