カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「再び、エセ科学について」~科学的にエセでも現実では起こる反応の話

 先日、エセ科学について書いたところ、中井先生から「その話、知ってます。本を持っています」というお話があり、ひとしきり話題にしました。するとその中で、植物や生き物も声のかけ方次第で育ち方に差が出てくるという話が出てきました。そう言えば植物の話は確かに以前聞いたことがあり、もしかしたら金魚か何かの話として、生き物のことも聞いたことがあるのかもしれません。そして植物や生き物なら、きっとそういうことがあるに違いないと思ったのです。とにかく”手”が違いますから。

 例えば、毎日「ばかやろう」と声をかけている鉢と「かわいいね」と声をかける鉢、ふたつを窓辺に置こうとするとき、もし多少なりとも条件に差があれば、私たちは無意識のうちに「かわいいね」の鉢をより良い位置に置くはずです。潅水のときだって「かわいいね」には多少余分に気を遣い、「ばかやろう」には無造作になるに違いありません。その一つひとつは見過ごすことのできる差ですが、毎日少しずつ積み重ねれば、いつか目に見える差となって表れるに違いありません。金魚だって犬だって、そして人間だって同じです。

 初めて教員となって担任したクラスが大荒れでした。中心となる女の子の指導がまったくできなくなり、クラスを丸ごとその子に持って行かれたのです。手も足も出なくなって完全に行き詰ったとき、一人の先輩が教えてくれたのは、「机を磨け」ということでした。
「毎日、放課後、一番難しい子の机を磨くのです。『お前のおかげで仕事ができる』『お前のおかげで飯が食える』と感謝の気持ちを込めて、何度でも磨きなさい」
 本当に打つ手がなくなっていましたから、けっこう真面目に、私はこの作業を繰り返しました。

 それでその子が良くなったかどうか分かりません。科学実験ではないのですから『やった場合』と『やらなかった場合』を比較することができないからです。また、それで私の心に感謝の気持ちが芽生えたかと言えば、それもなかったような気がします。けれど結局そのクラスを最後まで担任し、まがりなりにも学級としての形を整えることができた背景には、「机を磨け」も役立っていたのでしょう。とにかく”手”が違ってきますから。

 今日はクリスマス。聖書に「汝の敵を愛し、汝を迫害する者のために祈れ」という言葉があります。それも似たような意味なのかもしれません。