先日、路上で偶然、先輩の先生にお会いして言葉を交わす機会がありました。その別れ際、安全対策に話が及んだ時、こんな話が出ました。
「安全対策、子どもを見守る体制ができて、これからずうっと続いていくわけだろ。こりゃあ大変な子どもが育ってくるよ」
その時は理解したつもりだったのですが、あとで分からなくなりました。
子どもが見守られると言うことは一面監視されつづけることですから、子どもらしい体験がものすごく減ってしまうということだったのかもしれません(何しろ本県の生活科の教科書をつくったひとですから、そういうことも多いにありえます)。
あるいは、周囲が、子どもを思いやる人ばかりになってしまう、そのことを心配されたのかもしれません。それも多いにありうることです。
そうこう迷っているうちに、昨日(1/11)の新聞に面白い記事が出ていましたので、抜粋を載せます。
優しい社会の逆説。
私たちは優しい社会をつくった。問答無用で理不尽な目にあったり、未来の希望を勝手につぶされることが、なくなったわけではないが、以前よりは少なくなっている。病気は治ることがふえ、事故にあうリスクも減ってきている。それを最も簡単に示す指標は平均寿命だろう。平均寿命はこの数十年で大幅に延び、今も少しずつ延びている。その面でいえば、確実に良い社会になっている。
しかし、そういう優しい社会は、深刻な問題もかかえこむ。優しい社会では、ほとんどの人がそれなりに愛され、好かれる。それなりに価値があると認められている。だからこそ、きびしい拒絶にあったり、「ダメなヤツだ」と決めつけられると、脆(もろ)い。動転し逆上し、深く傷つく。
そして、なかにはその痛みを自分より弱い相手にぶつけることで、解消しようとする人間がでてくる。自分は傷つけられた、だから自分には他人を傷つける「権利」があるのだと信じて。「憎悪犯罪(ヘイト・クライム)」の構図である。
いつの時代でも、新聞には人が傷つけられた事件や殺された事件の記事が載っている。それらを読むたびに、やりきれない思いに駆られる。被害者が幼い子どもや老人のように、誰から見ても弱い人間であればあるほど、そうだ。
最近はそれに、従来になかった種類のやりきれなさが加わる。子どもや老人がはけ口にされる、というより、子どもや老人だからこそ、狙われる。弱い人間が弱さゆえに、意図的につけ狙われる。そんな事件がふえているように思う。そのいくらかには(もちろんすべてではない)おそらく、優しい社会ゆえの背景がある。優しい社会には、その優しさゆえの残酷さがある。ずっと愛されて好かれて、それなりの価値を認められてきたからこそ、加害者になったりする。
そういう犯罪は、いわば私たちの内側凝やって来る。だから監視の眼も、私たちの内側に、より厳重に向けざるをえない。人権を脅かすことでしか、人権を真剣に守れない社会。それがまた、やりきれない。