「ゼロ−トレランス(zero-tolerance)」

 昨日のN新聞の教育欄に「ゼロ−トレランス」という言葉が出ていました。最近の流行語です。トレランスは「寛容,雅量; 忍耐力」という意味ですから、不寛容とても訳すのでしょうか。「ちょっとした生徒の違反行為についても容赦しない」ということで、近年のアメリカ教育政策の一面を言います。それは日本でも採り入れようと、文科省内で「児童生徒問題行動プロジェクトチーム」が「ゼロトレラン方式の調査研究」を始めたのです。

 紙面で評論家の尾木直樹は、『さまざまな失敗を繰り返しながらも、その都度、親や教師の愛情深い叱責やねばり強い関わりによって、らせん階段を上がるかのように成長するのが子どもの特性である。その教育的関わりの機会がまったくないのでは、「学校刑務所」である』『事前にペナルティーを明示することによって、結果責任を採らせる方式では「指導の放棄」ともいえる』と激しく抵抗します。ただ、これも程度の問題でしょう。

 「清掃中におしゃべりをしたら清掃のやりなおし」といったルールを決めても、おしゃべりをした子が出るたびに「その都度、親や教師の愛情深い叱責やねばり強い関わり」をしているようでは話になりません。クラスには30人もの子どもがいるのです。こちらで指導している内に、あちらでおしゃべりが始まってしまいます。この子の理由を「ごもっとも」と認め、あの子の理由を「無効」と判断して「粘り強い指導」をしていれば、1年間延々と指導し続けなくてはなりません。ひとつルールを決めたばかりに、教師の苦労は大変なものになってしまいます。私はこういうことこそゼロ・トレランスでいいと思っています。
 掃除中に話をする子には、話をするだけの理由があるのです。「○○ちゃん、そこを掃いて」「水汲んできて」と、その多くは事前に話し合っておけばよいことなのですが、事前に話し合うためには努力が必要です。その努力をさせるのが私たちの本来の仕事のはずです。ゼロ・トレランスはそれを促進させます。しかしだからといって、子どもどうしの喧嘩にゼロ・トレランスを持ちこんで「喧嘩両成敗」(これも歴史的ゼロ・トレランスですが)、理由も聞かず罰することはもちろん不可でしょう。

 トレランス(寛容・雅量・ 忍耐力)を示さなければならない部分とゼロ・トレランスでやっていくべきところ、常に見極めていたいものです。