「欺瞞の短距離走」

 

 先日読んでいた本の中に、

「速い者同士を組み合わせて行う小学校のかけっこは欺瞞だ」

という話がありました。それによると

「こうした組み合わせでは、学年で一番でない限りいくら速くても一位になれない、逆に、遅い子でも一位の栄冠に浴するわけで、このようにして学校は子どもの真の実力を隠蔽し、誰にでもチャンスがあるように欺いて、子どもの社会化を遅らせてしまう」

ということになります。読んでいて私は「この人、子どもの頃は足が速かったのだろうなあ」と思いました。

 

 小学校のかけっこで一位になれなかった恨みを大人になっても引きずっている人はかなりいるみたいで、「せめて一番速い組については『この組は学年で一番速い組です』とアナウンスしたりできないものか」と言った話を何回か聞いています。さて、こうした考え方に対して、私たちはどう答えたらよいのでしょうか?

 

 もちろん、速い者が確実に1位になる組み合わせはあります。30人の男子を6人の5レースに振り分けるとしたら、予選の記録で、1・6・11・16・21・26番の子を同じ組にし、2・7・12・17・22・27番の子を同じ組に・・・としていけば、学年で5位までの子はほぼ確実に本番で1位になれます。なにしろ次の子との間に学年順位で5人分もの差がありますから、逆転はそうはないでしょう(これが大校で6人の10レースとなれば絶対に負けません)。ゴールでもそれぞれが一定の差で来てくれますから、決勝審判も楽なもので、混乱も起きないでしょう。

 しかし、本番で絶対に番狂わせのない「かけっこ」、全然面白くないじゃありませんか。

 

 それが小学校の運動会で「速い者同士を組する」本当の意味です。別に遅い子をかばっているわけではありません。「誰にでもチャンスはある」とウソの教えを垂れているわけでもないのです。とにかくやる前から順位が決まっていているんじゃ面白くない、やる気にならん、ということです。

 

 学校教育は近代教育だけを考えても既に100年以上の歴史を持っています。その中で今も続けられていることにはそれなりの意味があるはずです。学校のやることに対する保護者や世間の人々の疑問に対して私たちがうまく答えられないとしたら、それはその意味を十分に私たちが吟味していない場合だけなのだと、私にはそんな確信があります。