「表現という恍惚」①

 

 一昨日の研究会打ち上げの際、この「デイ・バイ・デイ」のことが話題となり、その中で校長先生より「副校長先生の文章には麻薬のようなところがあり・・・」といったお話がありました。フムフムとうなづけるところです。

 私は、書くことによって考え、書くことで考えをまとめようとするところがありますが、同時に、書くこと自体に快感があるという確かな自覚があります。

 

 それでフト思い出したのは、昔、「表現活動」を中心とした体育の研究授業に関わった際、音楽に合わせて体を動かすことはそれ自体が人間の欲求なのだと、強く感じたことです。世界中に数百の民族がいますが、音楽と舞踏と絵画を持たない民族というものはおよそ考えられません。地球上の人間がすべて、独自の打楽器を持ち、リズムに合わせて体を動かすという文化を持っているのです。一番自由の利く楽器としての声も楽器として使われ、やがて歌に発展していきます。世界中の文学の始まりは「詩」ですが、それは音楽から発展したからです。つまり音楽も絵も文学も、芸術というものはそれ自体が本源的な人間の欲望だということです。

 

 それが学校教育にとってどういう意味を持つかというと、合唱や合奏それから作文や描画というものは人間である以上全員が好きなはずだ、本源的にそういうものだ、ということです。人間はチャンスさえあれば喜んでそれを行うはずである、ということです。

 もちろん実際にはそうではありません。歌を歌うなんて真っ平という子もいれば、絵には全く自身がない、作文なんて死ぬほど嫌い、という子はいくらでもいます。そうなると問題は、本源的に好まれるはずのそれらが嫌われるのはなぜか、何が子どもたちの欲求を押さえつけているのか、ということになります。

 音楽も絵画も文学も難しくなりすぎました。生まれたままの人間が何の技術も持たないまま楽しむにはレベルが高くなりすぎています。そのあたりにヒントがあるのかもしれません。しかしそれらは人間の本源的な欲求のはずです。