カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「良い子が危ない」~わけがない

 「良い子を強いられたために本当の自分を出せず」とか「良い子の仮面をかぶり続けた挙句」といった言い方が良くなされます。
「小さな頃はまったく問題のなかった良い子が・・・」とか「普通の良い子が突然犯罪に・・・」といった言い方もあります。しかしこれらはすべてまやかしか誤りです。

 そこで登場する「良い子」はすべて「手がかからない」「わがままを言わない」「逆らわない」というそれだけのことで、積極的に他人に手を貸したり、お手伝いをよくしたり、教師や友だちとの人間関係もよく、幼稚園や学校で人気者だったり活躍したりといった普通の意味での「良い子」ではないのです。
 「手がかからない」「わがままを言わない」「逆らわない」、今そのように書きましたが、それらはすべて「~(し)ない」といった形の否定形でしか表せない子で、総じて言えば「悪いことをしない」、ただそれだけの子です。彼らはいわば「擬似良い子」なのです

 彼らの多くは幼い頃から十分に愛情の伝わっていなかった子たちです。
 少しでも悪いこと(手をかける、わがままを言う、逆らう)をすれば、親に見捨てられるといった不安を抱えて育ちましたから、恐ろしくて少しも悪いことができなかったのです。ですから「悪いことを少しもしない子(=擬似良い子)」として大きくなってきていますが、否定形の行き方しか学んできていませんから、人間との付き合い方が実に下手です。

 人間との付き合い方というのは、ひとつには欲望の調整です。
 「主張し合い、せめぎあい、引き合って、お互い様」という交渉の妙です。それらはわがままを言ったり逆らったりしながらも、十分な指導を受ける中で学んでくることです。しかし彼らは学んでいません。
擬似「良い子」は、欲望のすべて心の中に封じ込め、ただ周囲にあわせてひたすら静かにしてきました。ですから苦しい。
 成長しするにしたがって幼稚園で苦しい、小学校にあがって苦しい。高学年になって欲望が育って内に封印しきれなくなると更に苦しい。
 そしてその中から、欲望を爆発的に表に出してしまう子も出てくるのです。突然、大きな犯罪に走る子の一部は確実にそうです。

 私は親も教師も、子どもが真の「良い子」になるように願い、援助し続けなくてはならないと思っています。特に教員は教育基本法の実現を目指すべく位置づけられた者ですから「良い子」を目指さなくてはなりません。

 教育基本法第一条には、
「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。」
とあります。このように育てられた子が真の「良い子」なのです。