「大人と子どもの信頼関係」

 

「子どもを信じましょう」ということは繰り返し言われることです。しかしその子が犯罪を犯した時、「信じていたのに・・・」と言えば世間から爪弾きです。バカな親だとしか思ってもらえません。その差は何なのでしょう。

 答えは簡単、子どもについては信じていいことと信じてはいけないことがあるのです。根拠もないのに「お前は東大に入る」とか、「明日から毎日5時間家庭学習をしてくれるはずだ」と信じたりすれば、子どもの方が迷惑です。

 

 子どもについて信じられるのは「だれでも良い子になりたいと思っている。みんなに誉められたいと思っている」ということくらいで、それが決定的です。非行の道に入る子たちも、私たちから見れば単なる異形の人と見える奇妙なファッションも、要するに普通のやり方で誉められることを諦めた(止めた)子たちが、友達や特殊な社会の人々から誉められるためにそうした行動を取っているに過ぎません。

 

 では、「子どもが大人を信頼する」というのはどういうことでしょう? 

 それも簡単です。それは「(良くなろう、すばらしい人間になろうという)ボクを、絶対に見放さない」ということなのだからです。

 1970年代の荒れた学校を立てなおしたのは、いわゆる体育会系の教師だと言われています。一般にはそうした体育会系の教師たちが暴力で押さえ込んだと信じられていますがそうではありません。彼らは非行少年たちと真っ向から勝負し続けたのです。悪くなっていく子どもたち(本当はそんなふうになりたくないのに何らかの理由で悪い方へ流されていく子どもたち)を、最後まで見放さず、その悪い「部分」と戦い続けてくれた、それが非行少年たちの心に触れたのです。

 

 昨年の青少年健全育成大会である養護教諭が「悪いことをしたがる生徒に最も信頼されている先生は、その学校で一番厳しいといわれる先生だ」といったことを話しておられましたが、それも同じことでしょう。

 

 やさしい先生のクラスで子どもが荒れる、ということがあります。それは「先生が怖くないから子どもが舐める」と考えられていますが、それだけではありません。彼らにとって、悪いことを悪いと言って止めてくれない教師は「ボクを見放してしまった」「ボクが悪い方へ進んでも全く平気な」教師なのです。復讐したくなっても仕方のない最悪の教師です。

 もちろん教師の側からすれば「そんなこと言ったって、止めたってオマエは止まらないだろう」ということにもなりますが、「そんなボクでも止めてほしい」、それが子どもです。何とも自立的でない、他人依存の甘えた根性ですが、自立的でなく依存的で根性が甘えているからこそ、彼らは子どもなのです。