「修行としての清掃」

 

 世界中の学校で児童・生徒自身が校舎の清掃を行うのは旧社会主義国と貧しい国、そして日本だけだと言われています。社会主義国はもちろん国民皆労を基礎としていたからですし、貧しい国々は掃除夫を雇えないからです。日本以外のその他の国々では、専門の掃除夫たちが学校の清掃をします。いうまでもなく掃除夫は社会の中心的職業ではありませんから、貧しい人々が従事します。アメリカの場合、それは黒人やプエルトリコ系の仕事ですから、子どもたちは幼い時から彼らを見ながら、差別を学んでいくといわれています。では、なぜ日本では子どもたちが掃除をしなければならないのでしょう? それは日本が清掃を修行とする伝統を持つからです。

 

 日本には「道(どう)」と呼ばれる世界があります。華道・茶道・香道、柔道・剣道・空手道。相撲も、その精神性を強調する場合は相撲道と呼んだりします。これらの世界では、掃除が修行として定着しています。

 芸道という言葉もあります。落語や浄瑠璃、能や狂言・歌舞伎、これらの世界でも掃除が重視されます。落語家の家に弟子として入ったものの、落語は教えてもらえず掃除ばかりさせられていた、という話はよく聞くところです。

 しかし何と言っても掃除が最前面に出されるのは僧侶の世界でしょう。寺院ではあの広い境内が、繰り返し掃き清められています。「清める」それがキーワードなのです。

 掃除はつまり掃き「清める」活動です。きれいに片付けるだけでなく「清める」、精神の修行の場としての道場の穢れを、払いのける、そういう意味です。床という「もの」に対して積極的に働きかける、無心になる、無私・奉公の気持ちを持つ、己を見つめる…その他様々な意味もあります。そういうものとして、清掃は学校にも定着しました。

 

 5・6年前、某県の学校に視察にいったとき清掃が一日おきの月・水・金にしか行われないことにびっくりしましたが、逆に県外から本県の学校に転校してきた子たちも、目を丸くして驚くことがあります。それは無言清掃です。「なんで黙ってやらなきゃいけんの?」といった反発さえあります。

 しかしこれも清掃を修行だと考えるからそうなるのです。いろいろ理屈はつけますが、黙って清掃させるのは、意識の問題だけです。