ジュリアス・シーザーという男は大変傲慢な男で、例えばコーヒーを注文するときも自分の分を「ブルーマウンテン」とか言うのはまだしも、お付のブルータスの分まで勝手に決めてしまったようです。
「ブルータス、お前、モカ!」
さて、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』は大変な傑作ですが、「ブルータス、お前もか!」の科白で有名なこの戯曲の主人公は、シーザーではなくブルータスです。
このブルータスが自分のことを大いに可愛がってくれたシーザーを裏切って暗殺に加わるのですが、暗殺後彼はローマの市民の前に立ち、なにゆえにシーザーを暗殺しなければならなかったかを説明します。ローマの民衆は、彼の理知的な演説を聞いて納得したのですが、その後行われたアントニーの演説によって形勢は一気に逆転。ブルータス一味は、ローマ市民の敵となり、ついにはみじめな最期を遂げることとなります。その間に何があったのか? シェイクスピアはこんな書き方をしています。
(前段略)
「シーザーはわが友であり、私にはつねに誠実、かつ公正であった。
が、ブルータスは言う、シーザーは野心を懐いていたと。
そして、ブルータスは公明正大の士である……
生前、シーザーは多くの捕虜をローマに連れ帰ったことがある、しかもその身代金はことごとく国庫に収めた。
かかるシーザーの態度に野心らしきものが少しでも窺われようか? 貧しきものが飢えに泣くのを見て、シーザーもまた涙した。
野心はもっと冷酷なもので出来ているはずだ。
が、ブルータスは言う、シーザーは野心を懐いていたと。
そしてブルータスは公明正大の士である。
みなも見て知っていよう、過ぐるルペルカリア祭の日のことだ、私は三たびシーザーに王冠を捧げた、が、それをシーザーは三たび却けた。
果して、これが野心か? が、ブルータスは言う、シーザーは野心を懐いていたと。
そして、もとより、ブルータスは公明正大の士である。
私はなにもブルータスの言葉を否定せんがために言うのではない、ただおのれの知れるところを述べんがために、今ここにいるのだ。
(中略)
……みな、許してくれ、私の心はあの柩のなか、シーザーと共にあるのだ、それが戻ってくるまでは先が続けられぬ。
(泣く)
評論家の山本七平はこれを『アントニーの詐術』と呼びました。ここで行われたことは、
1.、自分に都合のよい事実の編集
2.問いかけ
3.民衆と死せるシーザーとの一体感の醸成
です。
これらを順序良くこなしていくことによって、「民衆を煽動したくはない」「暗殺者のブルータスは高潔の士だ」と言いながら、アントニーは思惑通り、民衆を煽動することに成功するのです。
ここで注目すべきは2の「問いかけ」です。高いところからアントニーが「これは野心ではない」と断言していれば権力者嫌いの民衆の心に反射的に「そうじゃない、それは野心だ!」という答えが浮かびます。
しかし「果して、これが野心か?」と問われれば、その答えは「野心ではない!」です。
しかもこの「野心ではない!」には、『上から言われたのではなく、自分で考えたのだ。自分の答えだ』という思い(アントニーは尋ねただけだ)がこもりますから、民衆は否が応にも能動的になって行くのです。「自分で決めたこと」は非常に重要なのです。
さてこうした「問いかけ」、私たちは授業をしながら、無意識のうちにも何度も使っています。それを意識的に駆使するようになったらどういうことになるのか。それは日ごろ、私がしばしば考えることです。