カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「美しく生きる」~道徳の優れた半面

「どんなお子さんに育てたいですか?」と親に問うと十中八九、「他人に迷惑をかけず、自由にのびのびと」という答えが返ってきます。しかし、子育ての理念がこれしかないと、未成年の喫煙も飲酒もそれどころか援助交際も押さえきることは難しくなります。どれもこれも「他人に迷惑」をかけているわけではありませんし、「自由にのびのびと」やっているうちには、そういうことが必要になる場合もあります。

 膝を立てて食事すること、だらしないカッコウをすること、コンビニの前でたむろすること・・・・・・どれもこれも、「他人に迷惑をかけず、自由にのびのびと」やっている姿に違いはないのです。ですから、変なことをしている中学生なんぞに注意すると、「ウッセーなぁ。いいじゃねぇーか、誰にも迷惑かけてるわけじゃねーんだから」ということになります。
 そう言われると何となく私たちも、すごすごと引き下がらなければならないような気がしてきますが、内心、納得しているわけでもありません。他人に迷惑をかけているわけでもないけど、何か違っている・・・・。まさに「それでも地球は回っている」みたいなものです。

 実は私たちの済む世界には、「他人に迷惑をかけない」以上に大切な倫理があります。それは「美しく生きる」ということ、別な言い方をすれば「みっともない生き方はしたくない」という道徳観です。それを忘れているから身勝手な若者に反論できなくなるのです。

 そうした道徳観からすれば、当然、未成年がこそこそと隠れて煙草を吸う姿は許せません。「服装を整えなさい」とか、「だらだらするな」「口を開けてモノを食べるな」「目上の人には敬語を使いなさい」とかいうのは、皆このたぐいです。

 「美」は「他人に迷惑をかけない」のように、理屈で説明で説明することができません。美しいものを繰り返し見させ、美しい生き方を常にさせるところからしか身についてきませんから、ついつい指導がおろそかになりがちですが、私たちは無意識のうちに常にそのことを感じています。

 先日、校長先生より整列や行進についてのお話がありました。なぜ、きちんと並ばなければならないのか、なぜ整然と歩かなければならないのかの、理由のひとつがここにあります。だらだらと歩くのは美しくないのです(行進練習にはこれ以外にもたくさんの意味があります。それは例えば「他人に合わせる能力の醸成」とか「耐える力の育成」とか、あるいは「全員で合わせておこなうことの統一感・高揚感を味わうこと」とか、そういったことです)。

 これから3週間近くに渡って運動会の練習が行われていきますが、その間、常に心の隅に置いておきたいことは、この「美しく」という問題です。