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「生徒指導の要諦」~事実をありありと、生き生きと描く

 生徒指導の手続きにおいてもっとも大切なことは「克明で客観的な事実をまざまざと目の前に見せる」「そのことによって己の罪深さを分からせる」ということです。

 TVの刑事ドラマでは、容疑者の前に動かぬ証拠をつきつけると「恐れ入りました」とばかりに真実を述べるのがお定まりですが実際には、そうはなりません。自白すれば死刑になるかもしれないというような事件ではなおさらで、容疑者は最後まで白を切り続けようとします。しかしそれにも関わらず結局自白してしまうのは、本質的には容疑者たちの中に「己の罪深さに恥じて贖罪しようという」心の動きが生じるからです。では、なぜ極悪非道の犯人たちがそのような気持ちになるのでしょう?
 それが結局、あの膨大な刑事調書なのです。

「昨日はここまで話したな、じゃあ今日はもう一度同じことをやってみよう」といった取調室のやり取りは、基本的にTVドラマと同じで、事件の顛末について細大漏らさず繰り返し繰り返し同じことを再現していきます。その過程を通じて、容疑者は自分の行いを対象化し、自分の行動やそのときの思い・感じ方を、他人が見るような目で見ることになります。そうなると犯行の当時は当然と思われたことも、あるいはやむを得ないと感じられたこともそうではなくなり、犯行の残忍さや非道徳が次第に感じられてきます。

 かつては中学校や高校で盛んに行われていた「反省文」にも同じ意味があります。反省文で大切なことは反省の言葉をたくさん書き連ねることではなく、事件の詳細を克明に文字にすることによって「己の罪深さ」を感じ取らせることなのです。

 校内で起こるいじめに類する事件や(ガラスをまるなどの)事故の指導についても同じです。教師の調査によって事細かに語らせることは、事実をつかむ手続きであると同時に反省を促す活動です。したがって調査は「詳細・克明」でなくてはなりません。どんなに時間がかかろうと、それは御説教よりはるかに価値ある活動なのですから、丁寧にやらなくてはならないのです。 

 高学年の児童ならそれだけです。淡々と調査を行うこと自体が指導です。けれど低学年、殊に1・2年生だとそうした手続きを経ても「対象化」ということは難しいかもしれません。その場合にも、しかし「起こったことがどういうことなのか」ということを知らせるのには意味があります。

 私は、現場検証のようなことをしばしばしました。実際に子どもたちを動かし、「いつ、どこで、誰が、どんなふうに、何をしたのでこうなったのか」を明かにしていくのです。その際、(校長先生もよくおっしゃることですが)厳しく、怖い顔を崩さないよう努めました。なぜなら、7・8歳までの子どもにとって意味あるのは、言葉ではなく、指導する者の口調や語気、表情だからです。