カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「部活の縮小には、必ず見えない保護者の横やりが入る」~キース・アウトを更新しました。

生徒の心身の健全育成、教員の長時間労働の縮減を理由とした部活動の縮小や地域移行。生徒や保護者から不満の声は聞こえてこないが、まだ本格的に始まっていないからだろう。いつかウチの子や私にとって不利になるなら、いつでも変えてやると、今は腕まくりをして見ているだけなのだ。

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「悲しみの見積もりと“親戚”の更新」~葬式なんてなくても大丈夫②

 一昨日と同様、昨日の母方の葬儀もイトコたちの参加が少なかった。
 もうこの親戚関係は解消したいということなのだろうか。
 しかし葬儀には特別な意味があるはずだ。
 現代の親戚関係を、人々はどう考えているのだろう。
 という話。
(写真:フォトAC)

【冷淡な人々、不躾な人々】

 二日続きの葬儀の二日目は母の姉。前日の父方の伯母と同じ98歳で、姪や甥は8名。その中で葬儀フル参加は私と私の弟を含めて3人。他に焼香のみが1名、通夜の前日に焼香に来て香典等を置いていった者1名、残り3名は未着・不参加でした。
 通夜の前日に来て焼香したしたのはイトコの中の最年長者で、昨年末、いきなりショートメールで「今年からお互いの年賀状のやりとりは、やらないということで、よろしく」と言ってて私を怒らせたひとです。

kite-cafe.hatenablog.com

 この人からは伯母の訃報を聞いたその晩に電話があって、
「そろそろ香典の額について見直したらどうか。イトコもみんな年金生活者になって家計も苦しい中、これまでと同じというわけにもいかないだろう」
などと言い出すので、また私は腹を立てます。
 親が二人とも死んでいて、
「もうウチはもらうもの(香典)をもらってあとは払うだけだから、この際、減額したい」
というならずいぶん図々しい話ですが、この家にはまだ101歳の母親がいるのです。
 そこで、
「いや、これは“行って来い”の話で、仮に今回、数百万円の香典を持って行っても、遠からずその数百万円がそっくり返ってくるわけだから、苦労してあちこち連絡して、揃えて減額することもないと思う――」
 そう言ってやると翌朝、改めて、「今まで通りで、ということで――」と連絡が入りました。

 “お前たちとの縁はこれから薄めたい、できれば縁切りしたい”と暗示されてうれしいはずもありません。しかし今回、二日続きの葬儀を経て、そうした「縁切り指向」が必ずしも最年長の従兄一人だけのものではなく、多くのイトコたちのなかにあると気づいて私は深く考えさせられるようになりました。何が起こっているのでしょう?

【失われた伝統、哀しみの共有と昇華】

 3年に及ぶコロナ禍が影響しているのは間違いないでしょう。
 この間、私たちは“出席すべき葬儀に出ない”という経験をたくさん積んできました。特に最初の1年間は新聞のお悔やみ欄も、「葬儀は過日、家族だけで行いました」といった事後報告で、あるいはまったく広告をしない例もたくさんあったのです。
 事後に知って慌てて駆けつけなければならない関係はあまり多くありません。コロナ禍以前だったら必ず行っただろう義理の大部分は、もう果たさなくて良くなったのです。その「行かなくて済む葬式がたくさんある」という経験が、親族にも適用され始めた――そう考えると、今回、伯母のたちの葬儀に無理をしなくなったイトコたち、香典の減額を本気で考えた年長の従兄のことも理解できないわけではありません。
 
 しかし、とそれでも私は思うのです。
 偉大でも何でもない普通の人間が、主人公となってみんなの話題の中心となり、しかも誉められたり感心されたりするできごとって、人生に2回しかないじゃないですか。結婚式と葬式だけです。しかも結婚式はない人もいる。
 だったら人生の最後のとき、故人を知るできるだけ多くの人々が、その人ひとりだけのために集い、その人について語るって、すごく大切でしょ。
 え? 本人は死んでるって?
 その通り、本人にその声は届きませんが、遺族は聞いています。
 
 弔問際に言う「お悔やみ申し上げます」は、死者に対してすべてやり尽くしたような家族でも必ず持っている「ああすればよかった」「こうしておけばよかった」という悔いを、私も共有しましょう、一緒に悔やみましょうという意味です。
 昨日の葬儀の後の席でも、喪主である従姉が写真を見せながら説明するのを聞いて、私の弟は「まだまだ元気でこんなふうに会話ができると分かっていたら(妹である自分の)お袋を連れて来たのに」とか「そう言えば伯父ちゃん(今回亡くなった伯母の配偶者)の位牌にお参りするということもしてこなかったよね」などと盛んに悔いていました。それが遺族にとっては大切なのです。慰めは悔やみの共有から始まるからです。
 
 そう考えるとできるだけ多くの人たちが駆けつけ、弔いの言葉を述べるのはやはり大事なのだということが分かってきます。もらった分の香典を返せばいいという問題ではありません。ましてや減額などまったく話にならない――私の中の“常識”はそんなふうに半鐘を鳴らします。
 世の中の誰もしなくなっても、私は弔問というその仕事をしましょう。
 
 そう決意すると同時に、別に分かってきたことがあります。

【悲しみの見積もりと“親戚”の更新】

 それは、もしかしたら個人が98歳だからいけなかったのかもしれないという可能性です。
 本人はもう存分に生き尽くした、家族も十分に介護し尽くした、だから悲しみもさほどではなく慌てて駆けつける必要もない、といった判断が無意識に働いたのかもしれないということです。
 しかしそうだとしたら、同世代であるイトコ本人の死、さらに進んでイトコの子が亡くなったといった事態が起こったら私たちは急いで駆けつけ、心を込めて哀悼の意を表するということになりますが、はたしてどうだろうか――。
 私はどっちみち行きますから判断の基準になりません。好奇心も手伝ってみんな行くとも思えますが、98歳の伯母の死と扱いが同じということもあるかもしれません。そう考えると思いは再び仏堂の周りを回り始めます。

 親戚というのは安上がりな自前のセーフティ・ネットです。第二次世界大戦中は疎開先として、あるいは食料の調達先として親戚を当てにして、戦後は就職先をあっせんしてもらうこともしばしばだったようです。それは現在でも通用しないわけではありません。大災害に遭ったというような場合はもちろんですが、例えば子や孫が千葉県に住むようになった場合、同じく千葉県にいる親戚はいざというときにアテにできます。そういう存在があると思うだけでも安心でしょう。
 しかしそれはオバやイトコでなくてもかまいません。子や孫が子どもの間はそうでも、今や子には配偶者があってその配偶者の兄弟が千葉県にいればそちらを頼ればいいのです。配偶者の親やその兄弟もアテにできます。
 
 子や孫の婚姻によって下の世代で親戚が拡大しており、私たちが後生大事にしてきた私たちの世代の親戚というセーフティ・ネットが、役目を失いつつあるのかもしれません。いわば親戚関係の更新です。
 イトコの中で年長者ほど私たちに無関心になっていくように見えるのも、彼らの方が年齢を重ねた分、大きな家族を所有するようになっているからかもしれないのです。
 (この稿、終了)

「村八分とシクラメンのかほり」~葬式なんてなくても大丈夫①

 私の父方と母方で、一人ずつの叔母が相次いで死んだ。
 葬儀が二日続きになったが、メイやオイの参列があまりに少ない。
 つい最近まで、葬儀は最優先事項だったはずだが、
 もはや人は死を畏れないということなのか――。
 という話。(写真:フォトAC)

親戚に、立て続けに葬儀があった】

 今年、まだ誕生日が来ないので98歳のままの父親方の伯母と、すでに誕生日を迎えたので98歳になった母親方の伯母が相次いで亡くなり、続けてふたつの通夜・葬儀に出ることになりました。父方の伯母の通夜から数えると3日連続の葬礼となり、今日がその三日目です。通夜・葬儀・火葬を1セットとすると、昨日までに1セットと三分の一を終えたわけですが、現段階ですでにヘトヘト。こんな体力・知力で自分の母のときに、ほんとうに喪主が務まるかと不安になりました。
 さらに今回の二つの葬儀に関して、かなり苛立たしい話があって、それで神経を擦り減らし疲れているという面も少なくないのです。なにかと言うと、伯母の死に対して、甥や姪に当たる人々、つまり私のイトコたち参加があまりにも少なく、態度もあまりのもそっけないからです。

【死者に対する文化が共有されない】

 親族に関する葬儀で最近のものは4年前の伯母の葬儀です。さらにひとつ前はその連れ合いの叔父ですから、この家では2年続きで葬儀を出したことになります。
 2回とも故人の兄弟姉妹(私の母たち)で生きている者・動ける者は全員、そしてほんとうに難しい事情のあった従弟ひとりを除いて、他は全員が葬儀に参加しました(本葬に来られなかった従姉も通夜には来ました)。その数は3家族で8名でした。
 直接の遺族であるイトコ兄妹3人もそれぞれ配偶者・子女・孫を連れてきますから、それだけも賑やかな大きな式になりました。

 ところが今回、その3兄妹のうちふたりが早々に不参加を明らかにします。長男ひとりが、それも本葬のみで通夜にも火葬にも来ないというのです。オジ・オバの葬儀にはオイ・メイに当たる者は全員、万難を排して出席すべきだと信じ込んでいた私は、それだけでカチンときます。つい4年前・5年前、イトコや叔母たちからともに両親の遺徳を忍び、一緒に別れを惜しんでもらったばかりではないですか。

 私はもちろん、私の弟もやはり文化的に最接近なのでしょう、連絡すると二つ返事ですべての葬礼に出席すると返してきます。3月いっぱいで第2の職も辞めるのでなかなか休んでいるわけにはいかず、それなのに娘の引っ越しなどで休まざるを得ないという急がしさでも、葬儀を優先に考えます。母は高齢で動けませんから、私と弟、どちらも欠くことができないのです。

 ところが残りの一家族も連絡すると、遠方ということもあって高齢の叔母が来られないのも理解できますが、イトコ姉弟のうち、弟のみの参加で従姉は来られないというのです。

「葬儀の参加は家族代表ひとり」という考え方を、一家族だけなく二家族から突き付けられ、私は考え込んでしまいました。

村八分シクラメンのかほり

 「村八分」というのは掟(おきて)を破った家族に対して、村全体が火事と葬式のふたつを除いてすべての点で仲間外れにする制裁です。
 火事が除外されるのは当たり前で、消火活動に協力しなければいつ火の粉がこちらに降りかかって延焼するかわかりません。そこで一緒に消火するのですが、葬式も同じ考えで、祭りをおろそかにすればいつ祟りの火の粉がこちらに降りかかるか分かりません。死者は丁寧に扱ってこそ、静かに成仏してくれるのです。

 こうした死者に対する畏れは根源的なもので、少なくとも日本国内ではほとんどの人と共有できるはずだ――と私は思っていました。いまはどんな理由であっても年休を許可しない上司はパワハラですが、かつては、
「メイの結婚式だから休みをくれって!? オマエにそんな暇なのか?」
くらいは平気で言ったものです。しかしそんな高圧的上司でも、
「なに~? イトコの葬式だから休みをくれって!? オマエにそんな暇なのか?」
とは絶対言いませんでした。言うとしたら余りにも世間知らずです。
 民族としての日本人は、葬儀をおろそかにできなかったのです。

 しかしそうした民族性を共有できない人たちが、私たちと同世代、あるいはそれ以上の層から出てきているのです。老境も深まると子ども返りすると言われますが「畏れを知らない子どものように・・・」*1なってしまったのでしょうか?

 いや、そうした畏れはなくとも、ともに泣いてもらった以上ともに泣きに行くのは当たり前ですし、故人に対して悔やむ家族があるなら一緒に行って悔やみを共有し、「お悔やみ申し上げます」と言わなくてはならない、それも当たり前のことだと私は思うのです。
 
(この稿、続く)

*1:シクラメンのかほり」の本当の歌詞は「疲れを知らない子どものように~」でした。

「令和の不良少年たちよ、輝け!」~教育の最前線をどこに置くか③

 校則やぶりは最年長の不良少年少女の特権であり、
 年少者や新参者の侵してはならない領域である。
 そしてそれは目に見える形で表現されなければならない。
 令和の不良少年少女たちよ、今や新しい道具が必要な時だ。頑張れ! 
 という話。(写真:フォトAC)

【校則破りはオレたちの特権だ】

 先週土曜日のYahooニュース『劇団ひとり 校則の見直し広がる動きに「若者って、ルールを犯したくなる。今度は社会のルールを犯すかも」』のコメント欄で、もうひとつ面白かった記事は次のようなものでした。
 
 昔の学力が低い学校では校則を破れるグループとそうでない普通の生徒が存在してた。
 そのグループは自分達以外の生徒には校則を守らせるように圧力をかける。
 破れるのは自分達の特権だと思ってるからね。
 そうやって昔は学校が生徒をうまくコントロールしてた。
 今そんな事は出来ないんだろうけど。
 
 ああこれもよく知った世界なのに、どうしてこういう考え方ができなかったのかと、少々悔しい気持ちがありました。特権なのだ。

 初めて中学校で担任したクラスが荒れに荒れたとき、私にも3年生の男子が訊ねて来てくれて、
「先生、困ってるでしょ。俺たちが何とかしてやろうか」
と声をかけてくれたことがあったのです。
 私のクラス以外はとても落ち着いた学校で、男の子たちもワルという感じではなかったのですが、生返事で済ませたのはあとで正解だったと分かりました。クラスの問題にさらに新たな要素が加われば、よけいに面倒になるだけでした

【ワルの分別と序列の道具】

 その後も、行く先々の学校で3年生が1年生を呼び出して指導したとか、生意気だと締め上げられたといった話が枚挙に暇ありませんでした。中には小学校でものすごく大変だと事前アナウンスの大きかった6年生たちが、入学前に中学生が締め上げられ、進学してきたときには借りてきた猫でももっと態度は大きいだろうと言われるほど、小さくなっていた例もありました。
 ただし締め上げられた子たちがその後もずっとおとなしいことは稀で、いつの間にか上級生と仲良くなり、堂々と校則違反のできる日を夢見て日々精進するのが普通でした。その日まで、ちょっとずつ悪くなっていくのです。
 
 スカートの丈がどんどん短くなるとか伸びるとか、襟元のリボンのだらしなさがだんだん昂じてくるとかルーズソックスの長さだとか。ズボンが太くなるとか上着が長くなるとか裏地に刺繍がつくとかつかないとか、あるいはネクタイの結び目をどこまで下げるのかとか。
 さらに言えば、左眉の上に絆創膏を張れるのは3年生の一部だけだとか、眉を剃れるのは上位3名だけだとか、ツーブロックだとか、ピンクのパステルカラーの下着は2年生からブルーは3年生でも一部だけとか――違反や符丁の道具はさまざまで、いつも変化しています。しかし学校がよほど平和ですべての子どもたちが自尊感情に満たされていない限り、目印の道具が何もないということはありません。

【令和の不良少年たちよ、輝け!】

 さて、今から30年ほど前、日本中の学校で学生服やセーラー服がブレザータイプに変えられ、様式化した昭和の不良スタイルが消されてしまうという大事件が起こりました。困った平成の新興不良少年たちはネクタイを下げるとかスカートをたくし上げるとか、髪を金髪するとかルーズソックスを履くとか、さまざまに工夫して、ギャルだのギャル夫だのガングロだのといった新しい不良文化を創造したのです。
 
 ギャル文化が一般化して不良の手から離れ、やがて廃り、その後うまれた新しい文化もお節介な大人たちによって潰されてしまいます。誰でもツーブロック、誰でもカラー下着の時代が到来すれば、平成の不良文化は終わりです。つまり令和も5年に至って、様式化した平成の不良スタイルが根底からすくわれようとしているのです。
 これから校内秩序をどう再構成するか、どんな道具をもって団結や序列を示すのか、令和の不良少年たちに実力が試されるときです。もちろん先生たちもそうやって(中略)学校が生徒をうまくコントロールできるよう、研究と研鑽を深めるに決まっています。
(この稿、終了)

「校則を破れるオレってすごくネ?」~教育の最前線をどこに置くか②

 子どもの中には常に、
 「誉められたい、すごいと言われたい」という欲望が渦巻いている
 勉学やスポーツで誇れない子は、ときにルールを破ることで自己を顕示する。
 ――その子たちから破るルールを奪っていいのか? 
 という話。(写真:フォトAC)

【子どもを信じるということ】

 「子どもを信じましょう」と言われて、ただ言われたというだけの理由から『この子は絶対に悪いことをしない、人をいじめたりしない』と信じる親がいたとしたら愚かです。そういった意味では、子どもはまったく信じるに足りません。
 試しに子どもに「ボクを信じて!」と言われたらこう返してやればいいのです。
「分かった、パパはこれからお前のことを信じるよ。お前はきっと学校の正義の人となって友だちを扶け、いじめはせず、常にクラスの手本となって勉学に励み、ゆくゆくは東大へ進学していつかはこの国を救う救世主になる――」
 そのくらい言えば子どもの方でもこう答えるはずです。
「パパ、やっぱボクのこと、信じなくていいや」

 子どもを信じるというのはそういう意味ではありません。信じていいのは「どの子もいつでも『良くなりたい、誉められたい、みんなにすごいと言われたい、感謝されたい』と思っている」という程度のことです。
「子どもが立ち直るのを信じて待ちましょう」というのも、子どもの中にある前向きな気持ちに期待して気長に待ちましょうということで、それ以上ではないのです。しかし大切なことですよね。
 ただしこの「誉められたい、すごいと言われたい、感謝されたい」は使い方によってかなり危険なことは、つい先日もお話しした通りです。
 また、昨日の引用記事で劇団ひとりさんが話していたのも、これに関わる問題です。
校則のメリットについて「不良のハードルを下げれる効果もあるような気がするんですよ。校則を破るっていうことで“俺はルールを犯してる”ってなるでしょ」と話した。

【校則を破れるオレってすごくネ?】

 不良の世界の評価基準のひとつは、「ルールを破れるオレってすごい」です。
 昔の不良についていえば、「中学生なのにタバコを吸えるオレってすごい」「刺繍入りの学ランを着て登校できるオレって偉い」「教師に悪態つけるオレって本物!」ということです。
 現代で言えば、「交通警察と渡り合えるオレってすごくネ?」「原チャリでパトカーを煽っているオレって偉くネ?」と言ったところでしょうか?
 つまりこの程度のことが「すごい」の実像であり、この程度で自己肯定感が高まったり有能感が増すなら、むしろ「御の字」といったところです。

 これが「誰もが恐れる暴力団の事務所に出入りしているなんて、オレってすごくネ?」とか「シャブを打つようになったオレってハンバじゃないでしょ?」というレベルで事が進むとしたら、なかなか子どもを守り切れるものではありません。
 指導は必ずしも100%うまく行くとは限らないのです。失敗して漏れ落としても子どもの被害は甚大ではない、その程度の位置を最前線にしておかないと必ず後悔するのです。

【懐かしきツーブロック、カラー下着】

 思えば「ツーブロック禁止」や「カラー下着禁止」は程よいきまりでした。
 子どもたちは違反することで、
「高い金払って整えてきたツーブロック。さて先公、どう始末つけるんだい?」
 あるいは、
「カラー下着、ダメだって言ったよね、さあ外せるもんなら外してみな」
 そう言って挑戦してくるわけです。しかしすでに始めてしまったツーブロックやカラー下着を取り下げさせるのは容易ではありません。懲罰も反省文か自宅謹慎どまりで、それすらも守らせられるかどうかは五分五分以下です。
 
 しかし敗れて常態化したところでツーブロックと色付き下着がひとり増えるだけです、その子や周辺の子たちの人生に、深い傷がつくわけでもありません。そのまま、どうでもいいそんな攻防を繰り返しているうちに、3年間はあっという間に終わってしまいます。子どもたちは大した不良になることもなく、卒業していきます。

『たけしさんも言ってたな
「ナイフを持ってきてはいけない」という校則がある学校では「ナイフを持ってくる」だけで、「俺は凄いんだ!」という証明になる。
 それがないと、凄いの証明には、ナイフで誰かを傷つけて、凄いの証明にするかもしれない。と』 
 何十年も経験を積んできたのべ数千万人の教師より、たった一人のコメディアンの言葉の方が影響力を持つのもシャクですが、日常的に子どもと接しているわけでもないのに、「凄いの証明」という概念で不良少年たちを説明してしまうビートたけしは、やはりただ者ではないのでしょう。

【エリートの悪癖:自分にできることは誰でもできる】

 比較的進学校やレベルの高い学校で校則が少ないのは、校則破り以外に、学力とかスポーツとかで、「俺は凄いんだ」を示す場があるからだ
 一流高校や一流大学の卒業生である評論家・識者の中には、自らの体験から校則なんてなくても子どもたちはきちんと生きていける、一見野放図に見えてもきちんと自らの力で自分を磨くことができる、そう信じて疑わない人たちがいます。そのひとたちはもう一度ビートたけし言葉を噛みしめてみればいいのです。
 世の中には勉強もスポーツも芸術もダメで、ルールを破ることでしか認めてもらえないと思い込んでいる子どもたちがたくさんいるのです。そうした子どもたちから「ツーブロックに挑戦する」「カラー下着で権力を誇示する」、そういった機会を奪ったらどうなってしまうでしょう? かわいそうじゃありませんか?

(この稿、続く)

「指導はなくとも子は育つ?」~教育の最前線をどこに置くか①

 「学校の常識は社会の非常識」という。
 しかし教師が100年以上に渡って積み重ねてきた教育的知見が、
 ひとりかふたりしか育ててこなかった人々の知見に劣る、
 ――そんなふうに考えられるのはなぜだろう。
 という話。(写真:フォトAC)

【学校という学びの場には、それにふさわしい服装や髪型があるだろう?】

 私はごく常識的な考え方をして常識的な話しかしていないのに、世間ではまったく受け入れてくれない、そう思うことがよくあります。特に教育についてはそうです。「学校の常識は世間の非常識」とはいうものの、私が当たり前と考えることが世の中でまったく通らないことに戸惑うことが少なくないのです。
 例えば、いまさらながらの話ですが、男子のヘアスタイルのツーブロックや女子の色のついた下着を禁止することがなぜ人権侵害なのか、なぜ間違っているのか、いまだに分からないのです。

 葬式は遺族とともに弔う場ですからけばけばしい飾りの着いたパーティドレスで参加してはいけません。華やかな喜びの場だからと言って結婚式に白いドレスで参列するのも間違っています。こうした”常識“あるいは”良識“について、「葬儀に喪服を着ろという法律がどこにあるのだ」とか「同調圧力で喪服を強制するのはおかしい」とか、あるいは「何を着るかは自由で、強制するのは人権侵害だ」と叫んで抵抗する人はいません。
 場にはそれにふさわしい服装とか装飾とかがあって、大人は自然に守ることができるのです。

 同様に、学校は学びの場ですから学徒にふさわしい姿かたちがあります。厳密に髪はこう、服はこうと示すことはできませんが、少なくともツーブロックや、薄いブラウスから透けて見えるパステルカラーの下着は勉学の場にふさわしいものとは思えません。ところが葬儀や結婚式での服装や言動といったことでは一致できるのに、「学びの場にはそれにふさわしい髪型や服装がある」とか「学生には学生らしい身だしなみがある」といった“学校の常識”は、世間ではまったくの非常識なのです。そこが互いに理解できない。

【指導はなくとも子は育つ?】

 何かというとすぐに「高校生らしいというのはどういうことだ」と詰め寄られますから、指導が揺らがないように文書で示すと、ブラック校則をなくせという話になる。
 服装や髪型に関するきまりのどこがブラックなのかと突き返すと、男子教員がスカートをまくったり胸元から覗いたりといった異状な服装検査や、真冬でもジャンパーを着せないといった杓子定規の指導と抱き合わせにして、だから悪いだろうと丸ごと潰しにかかる。
 基本的な服装のきまりまでなくして、そんなことで常識や良識をどう育てたらいいのかと問うと、かつては「そんなことはプロなんだから自分で考えろ」という話になり、今は「自己責任、家庭の問題」という話になる。しかしもともと「家庭の教育力は落ちているから学校で」ということで学校が忙しくなっているのだろう、今さら自己責任だの家庭の問題だのと言ってはいられないだろうと、悪態のひとつもつきたくなります。

 ちなみに男子教員がスカートをまくっての服装検査といった人権侵害、というよりは組織的わいせつ犯罪が刑事告訴されたという話はつとに聞きませんし、福岡県弁護士会もアンケートによって“事実”を把握しながら告発もしていません。背後でよほど大きな権力が動いて隠ぺいに加担しているか、事実がないだけなのでしょう。広島市のジャンパー剥ぎ取り事件ももう少し突っ込んで調べないと、何か複雑な事情がありそうです。珍しく激しい雪の降った朝、ぼんやりと外を見ていたらジャンパーで登校してきた生徒がいたので捕まえて指導した、といった呑気な話のような気がしません。中学校の先生たちが暇を持て余しているという話も聞かないところです。

 「大人と違って子ども何らかの指導をしないと場にふさわしい身なりとか行動とかを取ることができない」というのが学校の常識です。それに対して社会は、少なくともマスメディアやネット市民の常識は「子どもたちのセンスや常識は、自由にして自ら磨くことによって育つ」です。あまりにも開きがある。
 私はときどき、世間の言う通りなら道徳や特別活動なんかいらないじゃないかと思ったりします。掃除やら児童生徒会やら、修学旅行・文化祭といった行事やらをすべてやめて数学や国語を教えるだけなら、働き方改革の問題も瞬時に解決してしまいます。その上で「放っておいても子が育つ」ならこんないいことはありません。
 
 さて、以上のような話は過去18年間、このブログでも繰り返し申し上げてきたことで、続けろと言われればいくらでも続けられるものです。しかし教員以外の誰の賛同も得られません。何度やっても虚しさを感じるだけなのですが、最近、少し毛色の違う話をネットニュースの中に見つけたので紹介します。それは、
 劇団ひとり 校則の見直し広がる動きに「若者って、ルールを犯したくなる。今度は社会のルールを犯すかも」

www.sponichi.co.jp
というスポニチの記事です。


劇団ひとり、教育を語る】

 記事によると、
「お笑い芸人の劇団ひとり(46)が、4日放送のテレビ朝日中居正広のキャスターな会」(土曜正午)に出演。全国の学校で、厳しい校則の見直しが広がっていることについて語った。
(中略)
(校則について効果を疑問視したあと)校則のメリットについて「不良のハードルを下げれる効果もあるような気がするんですよ。校則を破るっていうことで“俺はルールを犯してる”ってなるでしょ」と話した。「でもその校則ってのがなくなったときに、やっぱルールを犯したくなるじゃないですか、若者って。今度社会のルールを犯すっていうところに、もしかしたらいっちゃうかもしれないから、ちっちゃいボヤでおさまらせるっていう意味でいうと(校則が必要)」と、校則の緩和による、ある種の危険性を口にした」
 少しわかりにくい記事ですが、これがYahooニュースに転載されるとコメント欄に面白い投稿が並びました。
 その一つがこれです。
『たけしさんも言ってたな
「ナイフを持ってきてはいけない」という校則がある学校では「ナイフを持ってくる」だけで、「俺は凄いんだ!」という証明になる。
 それがないと、凄いの証明には、ナイフで誰かを傷つけて、凄いの証明にするかもしれない。と。

 比較的進学校やレベルの高い学校で校則が少ないのは、校則破り以外に、学力とかスポーツとかで、「俺は凄いんだ」を示す場があるからだとも。」

(この稿、続く)

「近未来の教師は、電子所見の夢を見るのか」~ChatGPTが不快な件③

 ChatGPTは中身のないおしゃべり外人みたいなもの、
 しかし口はうまいので何となく不安視されている。
 例えば学生が論文づくりに悪用すること。
 だがむしろ、心配なのは教師が通知票づくりに使うことの方だ。
 という話。(写真:フォトAC)

【ChatGPT=中身のないおしゃべり外人】

 ChatGPTが嘘をつくという件については、あとふたつほど例を挙げておきます。

問1 松本潤井上真央はいつ離婚した?
答1 私は2021年までの情報しか持っていないため、松本潤井上真央がいつ離婚したかについての情報は持っていません。また、個人のプライバシーを尊重するため、彼らのプライベートな問題についてはコメントしません。

問2 松本零士の亡くなったのはいつ?
答2 松本零士という人物が具体的にどの方を指しているのかによって異なりますが、一般的には日本の漫画家・アニメ監督である松本零士氏のことを指していると思われます。
 松本零士氏は現在も存命中で、2023年3月現在、健在であるとされています。過去に何らかの誤情報が拡散された場合には、その点についてはお詫び申し上げます。
 
 問1の正しい答えは「私は2021年までの情報しか持っていないため、松本潤井上真央いつ結婚し、いつ離婚したかについての情報は持っていません」でしょう。少なくとも2021年に未婚だった二人の離婚について語っておいて、結婚について語らないのは詐欺の匂いが芬々です。
 また「2021年までの情報しか持っていない」と言いながら、問2では「(松本零士は)2023年3月現在、健在」と今月について語るのも何ともまやかしっぽい。さらに松本零士は今年2月15日に亡くなっているはずで、それを誤情報だとChatGPTに謝られても困ります。
 
 どうやらこのプログラムは人間の質問を完璧に理解し、完璧な日本語で返すことにこだわっても肝心の中身についてはあまり関心がないみたいです。流ちょうな日本語でペラぺラとどうでもいい話をまくし立てる変な外人と同じで、信用するに値しません。

【近未来の教師は、電子所見の夢を見るのか】

 ところで、ChatGPTがテレビで初めて紹介された際、文章作成が上手という特性を生かして大学生がレポートや論文をChatGPTに書かせて提出したらどうするのか、といった点が話題になりました。これにはほどなく完璧な回答が用意されてきて、レポートをChatGPTに読み込ませ、「これ、お前が書いたの?」と質問すればいいのだそうです。すると「98・5%の確率で私が書きました」といったふうに返事が返ってくるので、学生にその事実を突きつけ、血祭りにあげればいいのです。周辺の学生は恐れてこの方法に近づかないでしょう

 心配はむしろ教官・教員の側にあります。保護者に出す学年だより・学級だより、あるいは通知票や指導要録の所見欄をAIに書かせる教師が出てきたらどうするんだ――と気にかけていたら早速ネットにやり方を上げた方がおられます。

note.com

 「Googleフォームで保健室の来室記録をつくろう」とか「音読カードをつくろう」とか言って実際に作成していますから間違いなく現役の教師で、「APIを取得してChatGPTとスプレッドシートを組み合わせよう」とか難しいことを言いますから、かなりのコンピュータ使いです。
 
 このひとがChatGPTに、
「体育のとび箱をがんばった児童への所見を書いて下さい」
とお願いすると、
「以下は、体育のとび箱をがんばった児童への所見の例です。
 ◯◯君/さん、跳び箱がんばりましたね!姿勢がよく、着地もきちんとしていて素晴らしかったです。また、挑戦するたびに高く飛べるようになっていて、その成長ぶりには感心します。とび箱の技術がますます向上することを期待しています。今後も頑張ってください!」
と返してきた例を示しています。
 
 さらにいくつか書いてほしい場合として、「いくつかの文例を示してください」と書くと、チャットですから前の文も参考に、手替え品替えで3通りのほどの文章を示してきます。あとはそれをコピー&ペーストで通知票に書き写せばいいだけです。
 記事の作者はさらに、一気に大量の所見をChatGPTに書かせ、それをスプレッドシートGoogleの提供するExelのようなもの)に書き出すという方法も示して見せます。
 すごいと言えばすごいやり方です。

 では今後、教師たちの一部がChatGPTなどを使って所見を書かせ、それを通知票に張り付ける時代は来るのでしょうか? ――私は「かなり眉唾だが、そういう時代が来てもいい」と思っています。というのはこのやり方、意外と大変で、それだけに良い結果を生み出すかもしれないからです。

【やはり所見はAIより人間の方が早い可能性】

 昨日から申し上げていますが、ChatGPTは作文こそものすごく上手ですが中身が不誠実です。先ほどの体育の所見も児童がとび箱をがんばった事実が鮮やかに表現されているものの、その子が「挑戦するたびに高く飛べるように」なったかどうかは別問題で、同じ「がんばった」でも、「一回も跳べなかった子がようやく一回跳べて自信をつけた」というような場合だと提案は使えません。もちろんそのために「いくつかの文例を示してください」と数を求めることになるのですが、そうなると今度は選択という作業が生れてきます。これが思ったより大変なのです。

 新人の先生の中には教育雑誌の付録か何かで「総合所見文例500」とかいうのを見て、実際に使ってみた方もおられるでしょう。でもどうでした? あれ、ダメだったでしょ? 
 30人の児童を500の文例と対照すると15000通りにもなってしまうのです。実際には全部を対照したりはしませんが、それでも1000回か2000回はやることになります。するといつの間にか頭が「文例脳」になって、500から選んで書き移すより自分で考えた方が早くなっているのです。文章のリズムとか内容とかが、身体に染み付いてしばらく「ノリノリ」状態なのです。
 教員になろうという人で文章がまったく書けないひとはまずいませんからそれで十分です。ChatGPTにたくさん文例を出させたあとで選ぶより、「総合所見文例500」でも買いに行った方が早いのです。

【ChatGPTを有効に使ったすばらしい所見の可能性】

 ただChatGPTを使った通知票の所見生成に、もっと優れた可能性もないわけではありません。それは予めたくさんの事実を集積しておいて、AIの力を借りて一気に文章にしてしまう方法です。
「休み時間も練習して逆上がりができるようになった」とか「算数では余りのある小数の割り算に優れていた」とか「国語の詩の読み取りで、誰も思いつかない優れた感想が持てた」とか、日常のこまごまとした記録を丁寧に取っておいて、ChatGPTには「スプレッドシートの記録を全部読み取って、それをまとめて400字以内の文章にしてください」と依頼すればいいのです。
 記録がきちんとしたものなら10分足らずで、それぞれの子をきちんと把握・表現したすばらしい所見を30人分、すぐに書きあげてくれるでしょう。これだったら誰も文句のいえないすばらしい実践ということになります。

 ただし私はそんなふうに丁寧に記録を残すタイプではありませんから、通知票の時期になったらあれこれ資料を突き合わせながら思い出し、ひとりひとりに時間をかけて所見を書く方が向いているみたいです。おそらく普通の教師の大部分が、しばらくは私と同じ道を歩むのではないでしょうか。

(この稿、終了)