「老後の心配は貧困だけじゃない」~財産は残せばいいというものでもない①

 老後を年金だけでは生きてはいけない、最低2000万円は必要だという。
 しかし普通に準備すれば2000万円はそれほど大きな額でもない。
 個人の積み上げていける財産は意外と多いものだ。
 問題はむしろムダに残してしまうことかもしれない。
 という話。(写真:フォトAC)

【老後のための2000万円、実はたいしたことはない(かもしれない)】 

 昨日のスポーツくじで6億円当てた男性が、その後も堅実に生き、高級外車や高級時計を買ったりタワマンを購入したりしてもなお投資で5000万円の上積みをし、現在の悩みは「6億円が目減りすることには痛みがある」「死ぬときは財産でゼロであってほしい」という矛盾とどう付き合っていくかだけだというお話の続きです。
 おそらくこの「財産は残したくないが、目減りは辛い」というのは多くの高齢者に共通するものです。

 しばらく前に、年金だけでは死ぬまで生活できない、最低2000万円の預金を用意しておく必要があるという話があって、ずいぶん話題になったことがあります。若い人たちには「2000万円もかよ」という話だと思いますが、総務局統計課の発表によると現在の高齢者の貯蓄現在高は1世帯当たり2324万円、中央値は1555万円 。これは65歳時点で用意された貯蓄ではなく、すでに多くを取り崩した人も含めての平均値・中央値ですから、まずまず2000万円はクリアできているといったところでしょう。
 しかもこの人たちは無収入ではなく、平均年収で312.6万円、可処分所得で218.5万円もあるのです。現役でバリバリ働いていた時と同じように消費すればすぐに足りなくなる額ですが、生活レベルをグンと下げて、慎ましく暮らす分には少なすぎる額ではありません。実際に子どもが自立してしまった「夫婦二人だけの生活」は、放っておいても慎ましくなるものです。

【老後は放っておいても自然に慎ましやか】

 そもそも2000万円不足説の根拠は高齢夫婦無職世帯(夫65歳以上、妻60歳以上の夫婦のみの無職世帯)の平均月収(社会保障等)が20万9198円なのに対して平均支出が26万3718円であるところから割り出されたものです。その差約5万円の30年分がおよそ2000万円なのです。
 しかし私のところのように持ち家なので家賃も払わず、外食も年に数回するだけ、旅行もギャンブルも一切しないという家庭では月に26万円なんて使ったりしません。80歳を過ぎればさらに支出は減るでしょう。

 日本全国を見渡すとそんな家族は意外と多いようで、そのため「経済的な暮らし向きについて心配がない」とする65歳以上の人は68.5%と、かなりいい数字になります。もちろん困窮しておられる方や不安な方も3割以上いるので安心しきることはできませんが、2000万円の貯蓄目標は高すぎるものでものでもないし、老後は思ったほど恐ろしいものでもないのです。それどころか一部には、財産が残ってしまうことの方を心配した方がいい人だっています。
*2000万円の根拠については「金融審議会 市場ワーキンググループ報告書『高齢社会における資産形成・管理』」(令和元年)。その他の数値は「令和4年版 高齢社会白書(内閣府)」による。

【もしかしたら財産は案外多いのかもしれない】

 先ほど「高齢者の平均貯蓄額は現在高で2324万円」と書きましたが、高齢者の中には4000万円以上貯蓄を持つ人がなんと17.3%もいるのです。まずこの人たちが「財産が残ってしまう問題」を考えなくてはなりません。

 最初の問題は相続税です。
 2017年まで相続税基礎控除額は(5000万円+法定相続人数×1000万円)でした。相続人が妻と子2人の計3人だった場合は、8000万円。つまり正味の遺産額が8000万円を越えない限りは相続税の対象にならなかったのです。ところが2017年の改正によって現在は(3000万円+法定相続人数×600万円)、つまり法定相続人が3人の場合、4800万円を越えた額に10%、15%といった相続税がかかるのです。

 4800万円と言えばとんでもなく大きな金額に思えますが、意外に目の前かもしれません。「いやいやウチはそんなにないから大丈夫」という人たちももう一度自分の周辺を見なおしてみましょう。貯蓄は4000万円に遠く及ばなくても、今後入る予定の遺産とかはありませんか? 株式や投資信託といった証券は持っていないでしょうか? 不動産はありませんか? 
 
 不動産と言えば私の家は築30年に近い、田舎では平均規模の一戸建てです。過疎化のために周辺には空き家ばかりが目立ち、広告を見ると売りに出してもほんとうに売れるかどうかマユツバなのですが、相続税の対象評価だと土地だけでも1千万円にもなってしまいます。家屋の方は販売物件としては価値ゼロ、壊した方が土地は高く売れるとさえ言われているのに相続税対象としての評価は260万円にもなっています。それが遺産として加算されます。
 
 私の家で貴金属と言えば歯に被せてある銀歯(金銀パラジウム)だけ、美術品もありませんがある家にはあるはずです。もちろん相続税の対象です。
 ひとつ250万円の宝石だとか1枚数十万円の絵画10点なんて、持っていないでしょうね? そうやって計算していくと、4800万円は目の前かもしれません。
 法定相続人が妻ひとりだったりすると基礎控除額は3600万円しかありませんから、貯蓄額が4000万円以上もある17.3%の高齢者は、貯蓄だけで相続税を払わされることになります。
 
 ただし、相続税なんて問題のほんの微々たる一部です。
 (この稿、続く)

「金が減るのも残るのも嫌だ」~やはり宝くじの高額当選者は思ったほど幸せではない

宝くじの高額当選者の話を読んだ。
人は何億円もの金を手に入れても、あまり生活を変えないようだ。
よく考えてみるとそれもありがちなこと。
しかしそうなると、高額当選者であることの意味は何なのだろう。
という話。(写真:フォトAC)

【10年前、宝くじで6億円当たった男はどう生きたか】 

 スポーツくじで6億円当てた男性が、その後の10年間を語るという文春オンラインの記事を面白く読みました。

bunshun.jp

bunshun.jp 要点は次のようなものです。

  1. “宝くじ当選者のヤバイ末路”みたいなことにはならず、生活はほとんど変わっていない。
  2. とりあえずそのうちの5億5千万円分は、すぐに銀行に金融商品を買わされた。
  3. そのとき銀行から紹介されたのが資産100億円という人で、以後、6億円はサッパリ金持ちではないという気になった。
  4.  のちに高級車や高級時計、タワマンを購入したが、タワマンは投資目的で住宅ローン控除を使うため、ローンを組んで今も払っている。
  5.  相談するために知り合いの金持ちには打ち明けたが、当選のことは家族以外の誰にもしゃべっていない。
  6.  親から“身分証明くらいのつもりでサラリーマンは続けろ”と言われたこともあって、今も続けている。「デキないヤツ」と思われるのが嫌なので手を抜いたりはしない。
  7. もともと資産運用が趣味だったこともあって、現在は6億が6億5000万円くらいになっている。
  8.  普通の生活をしているつもりだが、それでも生活の一部が見えてしまい、「なかやってるの?」と訊かれることはある。そんな場合は「投資でちょっと」とボンヤリ答えるようにしている。「儲け方を教えてよ」と乗っかってくる同僚には「300万円くらいないと始められない」「何かあっても責任は負えない」と言って逃げることにしている。

――なるほど。タワマンだけでなく高級車も高級時計も半ば投資目的ですから、この人、そちらに興味や才能がなければ、結局何も買わなかったのかもしれません。

【私だったら――】

 私だったら、と考えてみたものの、やはり似たようなことにしかならない気がします。
 豪遊したり女性を侍らせたりすることには興味がありませんし、高級品に対する思いもありません。一流のレストランで最高の料理を食べるといったことも、慣れない場で窮屈な思いをすることを考えると、気の進む話ではないのです
 投資への興味も才覚もありませんから6億円は手つかずのまま。この先どうするといった目途も立たず、ただ何とはなしの不安におびえながら暮らす、そういったところが関の山でしょう。

 ただ、当選した時点で仕事が苦しくてしょうがないようだと、サラリーマンを続けるのは難しくなるかもしれません。辞めたあとは再就職への意欲もわかず、6億円をつまらないことに使い始める、といったことはあるかもしれません。
 しかしそれでも、なんとなく思うのは、リュックサックひとつを担いで放浪の旅に出る、といったことです。一か所に留まれば浮浪者ならぬ“怪しい不労者”ですから生きていくのが難しそう、旅をしながら贅沢もせず、気の向いた時に気の向いた働き方をして、10年も経てば次の生き方も見えてくるでしょう。一生そのままでも構いませんが。

 そう考えていくと、宝くじで高額当選したところで、皆が人生を間違って没落していくわけではないことが、自然と分かってきます。記事の男性は両親に毎月30万円を上限に自由に使えるカードを渡したそうですが、それもほとんど使われていません。人間なんてそんなものです。むしろ堅実なまま人生を送る人の方が多いのかもしれません。

【人生を誤る人とそうでない人】

 ところが一方、アメリカでは成功したスポーツ選手の7割以上が引退して数年後に自己破産すると言われています。NFLアメリカンフットボール)選手の78%が引退後2年以内に困窮状態に陥り、NBAプロバスケットボール)選手の68%は5年以内に破産すると言われています。日本円で100億~200億が一瞬の間に消えてしまうようなものです。
 日本でも年俸およびスポンサー契約で30億円は稼いだと言われるプロ野球選手が、引退の翌年には自己破産したという話もありました。
 では6億円当てた記事の男性とアスリートたちの間で、何が違ったのでしょう?

 おそらくそれは高額所得者であることが人に知られているかいないかだけの違いだったと思われます。金持ちだと知られていればさまざまな人が近寄ってきます。まず銀行家が、続いて証券会社が、遠縁の親戚が、あるいは良からぬ人たちが――さまざまな動機でさまざま話をもって。
 生まれながらの金持ち(の子女)だったら小さなころか対処法を学んでいますから大丈夫でしょうが、アスリートや宝くじの高額当選といったにわか成金だとひとたまりもありません。

 普通の賢い人なら、宝くじで大きく当てても人に話したりしません。10万円程度の当選なら自慢してもかまいませんが(被害は数十万円で済む)、数千万円から億越えとなると普通は黙ります。高額当選者であることがバレないように、金遣いにもより慎重にならざるを得ません。その結果、生活は昔のまま、はた目にはまったく変わりないように見えるのです。

【やはり宝くじの高額当選者は思ったほど幸せではない】

「“いつ仕事を辞めてもいい”という状況は大きなアドバンテージだ」と6億円を当てた記事の方はおっしゃいます。よく理解できるところです。しかし「だからむしろ良い仕事ができる人」と「雑になってしまう人」の違いはあるのかもしれません

 記事の中で、インタビューアーの「お金への警戒心から人間関係が築きにくいみたいなことはないですか」という問いに、この人はこんなふうに答えています。
「それはありますね。恋人もずっと作っていないですし、当然、結婚もしていません」
――金を盗られるのが心配というよりも、大金があることを知られて人間関係がガラッと変わってしまうのが恐ろしいのかもしれません。

 この記事を読んで特に心が残ったのは次の2点でした。

  • お金が減ることにすごい痛みを感じるので、少なくとも当たった金額を維持したい。
  • 「DIE WITH ZERO」みたいな、一銭もお金を残さずに死にたい。

 これは6億円など、雲の上のさらにその上、といった私でもよくわかる話です。いまより多くは望みませんが、今あるものが目減りすることにはたいへんな抵抗があるのです。老人が貯蓄を消費に回さないのは老後に不安があるからだなどという人もいますが、そうではありません。もっと本能的なものです。それなのに全部が遺産になることにも耐えられないのです。

 そんな大きな矛盾を、私の何十倍もの規模で抱えて、しかも今後、私の何倍も生き続けなければならないこの人――。やはり宝くじの高額当選者は思ったほど幸せではないようです。

 

「知の伝承:どうでもいいことまで伝わっていく」~元教え子が昔の私を呼び覚ます

 フェイスブックに昔の教え子が投稿した「どうでもいい話」、
 実は私が数十年前に教えた話だった。
 こうして「どうでもいいこと」は伝承していく。
 しかし「どうでもよくないこと」だって密かに伝わっていくものだ。
 という話。(写真:フォトAC)

【元教え子が昔の私を呼び覚ます】 

 フェイスブックにアカウントを持っていて、あまり熱心にやっているわけではありませんが
ときどき更新しています。その始めたばかりの時期、私を探し当てた元教え子からいくつか友達申請があり、これも頻繁にやり取りしているわけではありませんが、お互いに「いいね」を押し合ったりしています。
 元教え子たちの「いいね」には「見守っていますよ」といた励ましの雰囲気があり、私の「いね」には半分以上「生きています」という生存確認の意味が含まれています。
 
 若い人たちの投稿に対して、何らかのコメントを書くということは、遠慮もあってしないようにしていますが、先日、三十代後半になった男の子(では、もはやないな)の投稿に心動かされて、ついつい書き込んでしまいました。彼の文が次のようなものだったからです。

茨城県
今日はやたらと地震でその名前が囁かれているからここで皆で一つ賢くなろう。
ただしくは いばら "き" けん
覚え方は"イバラ危険"
小学校の頃先生に教わりました。
あと、「◯◯さん?」で赤くなる。酸(さん)で赤くなるリトマス試験紙ってのもあった??
数十年たっても記憶にあるわ。

 文中の「先生」に心当たりがあります。私です。相手は当時小学校5~6年生で、とても小柄でヤンチャな子でした。

【子どもは大人から何を学んでいるか分からない】

 子どもは大人から何を学んでいるか分からない――それが教育の基本です。
 よく言われるのは性教育やいじめ指導の場で、「こうしてはいけない」という教育が一部の子にとっては「そうすることが面白いかもしれない」という形で頭に入って行く危険性です。「こうすると相手はとても苦しむ(だからやってはいけない)」が「そうすれば効果的に相手を苦しめられる」といった知識にしかならない場合です。

 家庭でも「子どもは親の背中を見て育つ」と言いますが、親がどんなに真面目に誠実に生きる姿を見せても、「ああはなりたくない、あんな堅苦しい人生は送りたくない」と、そんな学びをする子も少なくないのです。
 いまもときどき話題になる綾瀬の「女子高生コンクリート詰め殺人事件」(1989)の主犯は子どものころ、悪い先輩から「オレは殺人以外の悪いことは、すべてやった」という自慢話を聞かされて「いつか自分は殺人だけはやってやろう」と決心したと言いますから厄介なものです。

 話は大げさになりましたが、元教え子と話をするとやたらと出てくる思い出話が「イバラ危険」のようなショーモナイ話です。子どもたちはこうした余技のような部分だけは教師の名前付きで憶えています。そこで私は「お前たち、肝心の勉強の方は覚えておらんのか!」という言い方になり、元生徒の方はお約束で「そっちの方は全然アタマに入りませんでした」となるのです。

 そこで今回も、先ほどの彼の投稿に対して、
「つまらんことばかり教える先生がいたものだなあ」
と返信すると、ほどなく応えが返ってきます。
もう遥か昔のことでご芳名を失念してしまったのですが、確かその先生はよくフロル星人のマネをし「T先生」と呼ばれていたような記憶がうっすらと。
つまらないことを教える授業は「つまらない授業」ではないんだな。と感じます。
 ありがたいことです。


【知の伝承:どうでもいいことまで伝わっていく】

 ここからは私の推測と願望の話ですが、子どもたちがその「つまらんこと」を覚えているとしたら、本筋の「つまらなくないこと」も、頭や心の隅に入っているのではないのでしょうか? 少なくともその「つまらんこと」を覚えていたのは、私の話を聞いていたからです。
 
 「◯◯先生に教えられた」と名前付きで覚えられていることは、たいていは特異なこと、飛び抜けて感動的なこと、面白おかしいこと、そんなところかと思います。しかしそれ以外のことだって頭や心に入っています。繰り上がりの計算は◯◯先生に教えてもらった、国語のこの漢字を教えてくれたのは△△先生だといったことはまずありません。しかし入っているからです。

 長く人生の指針となる座右の銘のような言葉が、それを常に繰り返した先生の名前とともに憶えられていることもあれば、「誰から教わったか覚えていないが、オレはこの言葉、大切にしているんだよな」とか、そもそも教わった記憶がないのに考え方の基礎になっているとか、そういうこともたくさんある、あるはずだ、なくては困る、と私は思うのです。

 「イバラ危険」は誰でも思いつきそうなことなので日本中に「オレのオリジナルだ」と考えている人がいると思いますが私もその一人です。「リトマス試験紙は『さん(酸)で赤くなる』」は半世紀も前に私自身が中学校の理科の先生から教えられたものです。その先生も誰かから教えられたものの可能性があります。
 こうして善きものも、正しいものも、どうでもいいものも、師から弟子へと伝承していきます。そこが教職のなかなかいいところです。

 

「やはり小学校英語はいらない」~1%のエリートのために99%の凡人が苦しむことはない

 生涯、英語を使う機会がほぼゼロである日本人の割合は90%。
 必要に迫られて仕事で英語を使うことの時々ある日本人は9%。
 外国語習得に必要な時間はおよそ2200時間。
 そう考えると、やはり小学校英語はいらない。
 という話。(写真:フォトAC)

【翻訳アプリがあれば、英語を勉強しなくてもいいのか】 

 昨日のYahooニュースに転載されていたAERAdot.の記事が面白かったので紹介します。
「翻訳アプリがあれば、英語を勉強しなくてもいいのでは」 自動翻訳の専門家はどう答える?という記事です。
 
 内容をかいつまんで言うと、

  1.  一生にわたって英語を使う機会がほぼゼロである日本人の割合は人口の約90%である。
  2.  必要に迫られて仕事で英語を使うことが時々ある日本人の割合は人口の9%ほど。
  3. したがって英語が仕事の中心にあり、常時英語なしではやっていけない日本人の割合は人口のたった1%である。

 そのことを前提として考えた場合、

  1.  海外旅行などで稀に英語の必要があったとしても、他の外国語対応も含め自動翻訳で済ませばよい。
  2. 現在の自動翻訳を使いこなすには、中学・高校で文法や語彙の基礎力をつける1000時間程度はあったほうがいい。
  3.  コンピューターを媒介したらまどろっこしいと感じることもありうる。快適なコミュニケーションのためには、自らの語学力を改善することに大いに意味がある。そのときにかけるコストの問題である。
  4.  語学に向いている人はコストが小さい、そうでない人はコストが大きい。筆者は快適性とコストのバランスを個々が判断することに異論はない。

と、非常に明快な話です。こんな当たり前の話が、なぜこれまで議論の中心にならなかったのでしょう?


【やはり日本人に英語は必要ない】

 私もこのブログで再三、英語教育の拡大に対する反対を述べてきました。
 もちろんカリキュラムに余裕があって良き指導者が確保できるならやってもかまわないのですが、無理に小学校から始めることはありません。なぜならこの国で生きていく限り、英語なんてできなくても一向に困らないからです。

 小さい小さいと言われても人口が1億2600万人近くもいる国です。1万人に一人しか読まないような稀覯本を出しても1万2600部も売れる可能性があります。だから洋書は片っぱし翻訳されますし、映画もいちいち日本語版がつくられます。
 芸能で言えばAKBグループもジャニーズも海外展開に極めて不熱心です。無理もない、日本という巨大な市場を振り切って海外(基本的にはアメリカ)で一から出直しても、成功して収入の増える可能性はほとんどないのです。英語を必死に身に着けて外国に出ていく必要などありません。同様に中小の企業も国内だけで十分に採算が取れます。わざわざ冒険をする必要などないのです。
 特別な商品やサービスでない限り、個人レベルで外国に買いに行ったり売りに行ったりすることもなく、無理も冒険もする必要がない。その点で韓国やEUの国々とまったく違うのです。

【韓国やEU諸国は海外を目指すしかない】

 韓国の音楽市場は日米に比べると極端に小さい、だから最初から海外(主としてアメリカ)を目指さなくてはいけません。文化的成長が国の枠を越えてしまっているのです。映画産業も同様です。
 EU内の小国は最初から商売の相手を域内の外国に求めざるを得ません。なにしろブリュッセル―パリ間は直線距離で260km、東京―名古屋間とほぼ同じですし、ブリュッセル-ロンドン間の360kmは東京―大阪間(400km)より短いのです。したがってオランダのような国土も人口も少ない国でも、フランス語か英語が堪能ならいくらでも商売の幅を広げられます。いや、外国を相手にしなくては生きていけないのです。
 さらに娯楽も国境を越えます。オランダの若者は、日本人が国内のコンサートを渡り歩くのと同じ感覚で海外(フランスやドイツやイギリス)のコンサートに行くことができます。ディズニーランドにも行くでしょう。そして行くたびに学校で習った英語やフランス語は試され、復習されます。日本の子どものように英語を習っても使うのは学校の英語の時間だけ、というわけではありませんからあっという間に習得できます。
 外国語を学ぶ動機づけも習得環境も、まったく違うのです。

【1%のエリートのために99%の凡人が苦しむことはない】

 私は英語なんぞ学ぶ必要はないと言っているわけではありません。小学校から始める必要がないと言っているのです。
 なぜなら小学校というのはそもそもが「心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育のうち基礎的なものを施すことを目的とする」(学校教育法29条)ところだからです。そこで学ぶべきは、この国で将来「健康で文化的な最低限度の生活」(憲法第25条)を送るために必要な最低限度の知識と技能です。
 必要最低限度だから数学で方程式や関数は学びませんし、国語で古文に触れることもありません。織田信長豊臣秀吉くらいは知っていないと日本人として恥ずかしいし、電池の並列と直列くらいは覚えておかないと日常生活に支障がありますから小学校で学んでおきます。同じ理由で英語やプログラミングは人生に必要ではないからやる必要はないのです。生きていくうえで必須ではありませんから。
 
 自動翻訳機が発達しても英語が必要なのは、そして2045年に予告されているコンピュータがコンピュータのプログラミングをするシンギュラリティを経てもなおプログラミング技術を必要とするのは、日本のトップエリートだけです。その人たちを小学生の内から鍛えておこうとする小学校英語とプログラミング学習は、要するに「一将(エリート)」功ならせるために「万骨(普通の児童)」を枯れさせる政策です。
 日本人の99%は英語なしに、あるいは今までの中高生程度の英語で事足りる人たちです。そんな凡人まで巻き込んで、わずかなエリートたちのために小さなうちから苦しめる必要はないのです。

「“結局最後は人間”というもどかしさ。だが仕方ない」~なぜあの子は車内で死ななければならなかったのか②

 父親の思い込みから発生した岸和田の女児置き去り死事件。
 最後の砦はクラス担任の欠席連絡だったはずだ。
 しかしなぜそれができなかったのか。
 そこにはおそらく相応の理由がある。
という話。(写真:フォトAC)

【欠席確認、ほんとうに忘れただけなのだろうか】

 中学校で欠席確認を怠ったばかりに、二度も危うい目に遭いそうになった私も、小学校に異動してからはそうした事故を起こしませんでした。なぜなら小学校の担任はほぼ一日中、自分のクラスに張り付いていますから、不在児童の確認連絡を忘れてもすぐに思い出せるからです。
 それは保育園も同じで、保育士の場合、小学校よりもさらに対応する子どもが少ないですから、よほどの錯誤がない限り、いないことに気づかないということはないはずです。
 ではなぜ岸和田の事件(*1)で、保育士は無断欠席のかたちになった児童の保護者に、確認電話をしなかったのでしょう。

 報道によると、連絡しようとしたところで別件が入り、それに気を取られているうちに電話をしたつもりになってしまった、ということですが、それでも一日保育をする中では幾度となく思い出す機会があったはずです。

 連絡したつもりになっていたと言っても、そうだとすれば欠席理由についても聞いているはずで、発熱したという話ならコロナを疑い、けがをしたと聞かされれば登園できないほどのケガとはどういうことかと心配し、旅行に出ていると言われれば「なんで事前に連絡しないの」と恨み節が頭に浮かぶ――と、何かしらの爪痕が残っているわけで、それがない不在児童というのはやはり不気味です。思い出さないはずがありません。
 もちろん保育士の日常はそうしたことを思い出せないほど忙しいと言われれば、その通りなのかもしれませんが。

【無断欠席をしても園から連絡の来ない場合がある】

 私が疑っているのは、欠席があっても連絡しないことが日常になっていたのではないかということです。
 昨日書いた私の例がまさにそれで、プチ家出の最中に鉄道警察に保護された中学生は病気がちで不登校気味で、しょっちゅう欠席をしていて、そのうちのいく度かは無断欠席になる。もちろん私は欠席確認の電話を入れるのですが、これがしばしば通じない。通じないとなると面倒になる。実際には欠席確認を怠った日でも何も起こらず、保護者からのクレームもない、そうなると、次第に懈怠が日常化する・・・。

 そこでネットを調べると、あるサイト(例えばmamasta )では、さまざまな保護者が「子供が欠席なのに連絡をよこさない保育園や幼稚園」について書き込みをしていますし、Twitter上にはハッシュタグの着いた討論の場があり、さらにTwitterの投票機能を使ってアンケートを実施した人までいました。
「無断欠席に確認のない園なんて信じられない」という立場から、「そんなことしてもらったことがない」まで意見はさまざまですが、アンケートの結果は「保育園を無断で休んだら、園から連絡が……あった」が70%に対して「なかった」は30%でした。3割は少なくない数値です。

papayaru.com


【忙しいと仕事が“怖い者順”になる】

 もちろん最初から「無断欠席にはいちいち対応しない」という園はないと思いますから、いつの間にかそうなったのでしょう。
 私のようにいくら電話をしても出てくれない場合もあれば、逆に職場に電話を入れられて怒る保護者だっているかもしれません。いまはスマホ・携帯時代ですから職場にかけなくてもいいような気もしますが、実際には勤務中の携帯使用が禁じられていたりロッカーに置いていくよう義務付けられていたりするところも多く、そうなるとメールも読んでもらえませんから昔ながらの“職場に電話”しかなくなります。それが迷惑なのです。
 
 園の方にはそれ以外にも事情があって、もともと多忙な上に数年前の「待機児童ゼロ」政策のために保育士が極端に不足し、一人ひとりの負担も増えていますから児童に対応しながらの電話連絡というのもかなり大変なのでしょう。
 溜まった仕事は重要度順から怖い者順に並び変えられ、連絡を怠れば激怒するような保護者には必ず電話をするとして、無断欠席の多い家庭への連絡は滞りがちになり、そういう家がクラスに数軒となると、普通のお宅への連絡も怠りがちになる、そんなところかもしれません。
 
 今回お子さんを亡くされたお宅が、無断欠席の多い家庭だと思っているわけではありません。何となくですが、連絡を小まめにする幼稚園・保育園とそうでない園では、園の個性よりも地域差がありそうな気がします。

【事故はなくせるか】

 理屈の上では、
「保護者全員が欠席連絡を怠らず、それでも人間のすることだからミスもあって、園からの確認電話があったら感謝の気持ちを持って対応する、そういうことが習慣づいていれば限りなく事故はゼロにできる」
ということになりますが、それは理想論です。多様性の時代ですから多様な家があります。

 ITによって事故を防ぐということも盛んに言われますが、最後の砦が担任による欠席確認となると限界があります。実際に牧之原のバス置き去り死事件では、通園バスに添乗した職員が児童の登園をコンピュータに打刻していたにもかかわらず、担任は確認せず(打刻前に確認してしまった)、コンピュータ上では登園しているのに教室にはいないという不合理に気づけなかったのです。
 “最後は人間”という状況はこれからもしばらく続くでしょう。そうなると現在のやり方を徹底するか、職員と保護者、職員と職員が、きちんとつながる新たな仕組みを作るしかないということになります。
(この稿、終了)

*1:保育園に預けたと思い込んだ父親が自家用車に放置して死なせた事件