カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「アスリート・ファーストの『ア』の字もない」~それでも私はオリンピックを応援したい

 とにもかくにもオリンピックは始まる。
 今日まで何も言わず、ひたすら耐えてきたアスリートたちが、
 静かに表舞台へ出てくる。
 私は彼らを心から応援したい。

という話。

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(写真:フォトAC) 


 開会式まであと二日しかないというのに、東京オリンピック、まるで盛り上がりが感じられません。もっとも23年前の長野オリンピックのときもまったく盛り上がらず、スピードスケートの清水宏保が男子500mで金メダルを取ったとたん、一気に雰囲気が変わりましたからそんなものかもしれませんが。

 ただし、これほど「やめろ」「今すぐ中止せよ」といった声の中で開かれるオリンピックもそうはないと思います。私にはそれが切ないのです。
 
 

【選ばれし人々の背負ってきたもの】

 世の中には異常に足の速い人や泳ぎの得意な人、身体機能に優れた人が大勢います。
 つい先日の「チコちゃんに叱られる」では、運動神経は天賦のものではなく、だれでも訓練によって高めることができると言っていましたが、100mを16秒かかる人間が15秒に縮めることはできても、9秒台で走れるようには絶対にならないでしょう。
 可能性ゼロとは言いませんが、私の2歳になったばかりの孫のイーツを、誰かに預けたら確実にオリンピックのメダリストにしてくれるとか、東大に入れてくれるとかいったこともなさそうです。

 昔の人の話ばかりで恐縮ですが、水泳の岩崎恭子は小学校4年生の時の全校マラソンで5・6年生を抑えて一着になっていますし、ミカン農家の息子のゴン中山こと中山雅史は父親が忘れ物をするたびに、ミカン山と自宅とを何往復でもできたと言われています。
 栴檀は双葉より芳しいのです。超一流のアスリートたちはとりあえずアスリートとして生まれることが大事で、凡才から育てられるものではありません。

 しかしだからと言って、彼らが幸せかというと別問題です。才能のある人の前にあるのは、永遠の希望と競争と挫折と迷いだからです。

 子どものころはクラスで一番足が速かったりサッカーがうまかったりして意気揚々としていたかもしれませんが、すぐに次の段階の力を試されます。
 中学校の部活で早々に諦めさせられた人はむしろ幸せなのかもしれません。高校の有力校から誘われてそちらに行った人は全国の強豪と競わされえることになり、そこで敗れて諦めざるを得なくなった人の中には、見方によれば“勉学に励めばよかった3年間を、ただ運動に明け暮れてしまった”という場合もあるはずです。
 高校から大学、大学からプロ、あるいは実業団、その間も希望に引きずられ、競わされ、挫折や失望を繰り返してやがて振り落とされていく。最後に残るのは真に天才的なごく一部だけです。

 そうした希望や不安に耐え、それでも競技を続け、自分を投げ込み続けてきた彼らには、ほんとうに頭が下がります。投入された時間とエネルギーと資金、無限の努力、ご家族の支援は、途方もないものだったはずです。
 
 

【誰も選手を祝福しない、アスリート・ファーストの『ア』の字もない】

 考えてみるとこの一年間の、アスリートたちの辛苦は想像して余りあるものがあります。
 1年延期になったことでピークを維持できなかった選手がいます。昨年だったら予選通過できたのに今年になったのでできなかった誰かです。
 逆に延びたことで救われた選手もいました。池江璃花子選手も救われた一人で、リレーでの出場に道を開きました。しかしそのことで、昨年だったら出場できたはずの誰かが押し出されたことになります。もちろんそれも織り込まなくてはならないアスリートの運です。

 めでたく出場を果たした人たちは運の強い人たちですが、無限の喜びをもってオリンピックに参加するわけではありません。池江選手のSNSに辞退を促す書き込みがあったように、オリンピックが中止または再延期になればいいと考えている人は、朝日新聞によると国民の83%にも上るのです(2021年6月3日)。

 つい先日も迎賓館前に集まった群衆が、「オリンピックより国民の命!」とか叫んで気勢を上げていました。もちろんこの人たちがみんな、アスリートたちの夢がついえればいいと思っているわけではありませんし、選手たちを国民の敵のように見なしているわけでもありません。
 しかし新型コロナ禍さえなければ国民の期待を一身に背負って会場に向かい、何の憂いもなく戦えたはずの人たちが、今回は誰ひとり脚光を浴びることなく、静かに競技場に向かっていくのです。選手の一部には、国民からまったく支持されないオリンピックに参加するという後ろめたさを感じている人も少なからずいるに違いありません。
 
 

【アスリートが生み出す最高の感染症対策】

 実際のところ、この一年間はアスリートの気持ちなど誰一人考えていなかったのです。つい数年前は「アスリート・ファースト」という言葉が盛んに使われていたのに、アスリート」の「ア」の字もありませんでした。

 4年、5年、あるいは子どもの頃から数えると十数年もの間、身を焼き尽くすほどに焦がれ努力してきたオリンピックに、なにがなんでも参加したい――そういった選手の気持ちは痛いほど理解できますから、敢えて見ないようにしてきたというのが本当のところでしょう。選手の方も、何か言って叩かれても辛いだけなので黙っていました。
 しかしほんとうは、「誰のためのオリンピックか」と問われて「アスリートのためのオリンピックだ」と答える人がいても良かったのです。

 こうして誰も何も言わずに来ましたが、私は夢をかなえてあげたい。応援したい。
 オリンピック委員会は感染対策をしっかりすると言っていますし、毎日、関係者の感染が発見されると言っても、連日千数百人の感染者の見つかる東京でのことです。守るべきはむしろ大会関係者といった様相すら呈しています。いまさら外国人からの感染流入も恐れるに足りません。

 マスメディが今もオリンピックに反対して選手たちを支えないなら、私たちが支えましょう。毎日テレビをしっかりと見て、家の中で大声で応援すればいいだけのことです(当方、ワクチン接種済みの夫婦一組のみ)。

 選手も雑念を忘れて競技に集中し、存分に活躍してほしいものです。
 国民が静かに熱中し、会社員が飲み屋に立ち寄ることなく、テレビ観戦のために必死に帰宅するとしたら、それこそアスリートが直接的に引き出す強力な感染対策です。
 

「終業式も大切なステップ」~1学期が終わります②

 意識させなければ子どもは分からない、
 しかし分かればすぐにできることも少なくない。
 今日までそのように育てられてきたし、
 今日の学びが明日の足掛かりになるのだから。
 終業式、しっかりと参加させよう。

という話。

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(写真:フォトAC)
 
 

【観劇にどんな服で行く?】

 しばらく前のことですが、特別支援学校高等部職業科というところに勤める私の妻が、
「ヤッチマッタな」
と下品な言葉を使いながら帰ってきたことがありました。
 聞けばその日、「観劇教室」という市主催の行事があって、市民ホールまで生徒を引率したのですが、そのときの子どもたちのカッコウが酷かったというのです。妻に言わせれば、
「私服と言ったら普段着できた」
ということになります。「ヤッチマッタな」は指導すべき内容を落としてしまったので、結果がこうなったという意味です。
 妻は職業訓練部門の責任者ですが、学級担任としては副担任ですのでそのぶん抜かりがあったということなのでしょう。

 観劇というのは普段着で行っていい場ではありません。いや、行っていい場合もありますが、そうでない場合もあります。
 歌舞伎座新国立劇場のオペラパレスに行くなら多少気合を入れるくらいがちょうどいい。決して安いとは言えない劇場の一等席だのS席だのに座っている人たちの服装は、まるっきりの別世界ですから、そういう人たちに交じっても悪目立ちしない程度の服装――要するに常識的な服装で行くべきなのです。具体的に言わないと分からない人のためには、浴衣(寝巻)やボロボロのダメージジーンズ、襟の伸びたTシャツはやめましょうということです。

 市民ホールで高校生を招待して開かれる演劇や演奏なら、それほど緊張する必要はありません。制服のある学校なら制服、そうでない場合は制服に準じた私服でいいのですが、ラメキラキラのピンクのTシャツにホットパンツはダメでしょう。サンダル履きで来てはいけません。
 
 

【言わなくては分からないが言えばわかる】

「そんなことは言わなくても分かるだろう」
というのは実際の高校生を知らない大人の浅慮。妻の場合は特別支援学校の生徒ですからより細かな配慮が必要ですが、基本的にはみな同じです。大人だってしばしば場違いな服装で現れる人がいるのですから、子どもはなおさらです。

 そしてここからが最も大切な部分なのですが、それは、
「言ってやればいいだけのことで、説明の必要はない」
ことです。

 明日は観劇教室という前日にひとこと、
「本当は制服で行けばいいのだけど、この学校には制服がないからそれなりの服装で来なさい」
そう言っておけばそれなりの服装ができたはずなのです。妻の「ヤッチマッタな」も、“その程度で済むことを見落とした”といった口惜しさの表現です。
なぜ言えばできるのかというと、高校生になるまでになんども練習してきたからです。

 世の中には特にかしこまってきちんとしなくてはならない場がある。ひとの話を面白くても面白くなくても、最後まで聞かなくてはならないときがある。どんなに楽しい内容であっても、羽目を外しすぎてはいけません――。


 そういうことをどこで学んでどこで練習したかというと、学校の行事――卒業式だとか始業式だとか終業式だとか、学習指導要領の規定で言えば「特別活動」の中の「学校行事」の中の「儀式的行事」を通して、なんども練習してきたのです。
 校長先生の長く退屈な話にも実は大切な意味があるということ、儀式的行事の終わった後の教室で、担任の先生から改めて説明されたことはありませんか?
 
 

【終業式も大切なステップに】

 さて今日は終業式です(という学校が多そうなので)。
「一学期終業式の計画」といった書類を丁寧につくる学校では、式の狙いとして、こんな一文が書かれている場合があります。
「礼儀正しく落ち着いた態度で臨み、互いの成長を確認するとともに、長かった一学期を無事過ごせたことを喜び合い、夏休みを安全に過ごした上で、2学期に再び、健康で意欲的な再会を果たすことを誓う」

 単なるお題目のように考えられがちですが、ちょっと意識すると子どもたちへの接し方も変わってきますし、子どもたちの姿勢も変わってくるかもしれません。
 まさか、
「校長先生のお話、今日もつまらないと思うけど、我慢して黙って聞くのよ」
とは言えませんが、
「さあ、背筋をピシッとして! しっかり前を向いてお話を聞きましょう(つまらなくてもそうするものです)」
くらいは言えるでしょう。

 それが、将来、場をわきまえた大人となるための大切なひとつのステップなのです。
 

「通知票という私の武器」~1学期が終わります①

 通知票、間に合いそうかな?
 使い方によっては、児童生徒を生かしも殺しもできそうなこの武器。
 私にとっては保護者と直接話すことのできる重要な道具だった。
 もっとも現代では他にいくらでも方法はあるが――。

という話。

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(写真:フォトAC)
 

 【通知票、間に合いそうですか?】

 いよいよ明日は一学期終業式です(という学校がかなり多くあります)。

 昨日・一昨日と通知票に忙しかった先生も多かったのではないでしょうか。管理職に目を通してもらうことが義務付けられている学校では、もうとっくに終わっているかもしれませんが。
 現役のころの私は終業式の三日前くらいにはすっかり仕上がっていて、あとは渡すばかりに――ということを常に目標にしながら、一度も達成したことはありませんでした。前日の夜に仕上がっていればまだしも、最悪の時は終業式の当日、午前7時半まで書いていたこともあります。しかし終業式の最中ですら書き続けていた先生も、結局間に合わず、夏休み中に改めて取りに来させた先生も知っていますから、私なんかまだマシなほうです(ということにしておきます)。
 
 

【コピペの通知票、大丈夫?】

 他の先生がたがどんな書き方をしているのかは、ついぞわかりませんでしたが、今はSNS時代、その片鱗がうかがえる記事がいくつもあります。中でも驚いたのが、所見欄の文章を7種類ほど用意して、児童生徒に応じてコピペ(コピー&ペースト)するという先生方が、案外多いことです。

 子どもは千差万別、一人一人違っているとはいっても、全員がてんでんばらばらなら教育などできません。算数の間違え方や教師の指示に対する反応にはある程度の類型があって、だからそれを頼り指導の方針を立てられる、それが普通です。
 ですから通知票の所見欄に七つの文例を用意して、あとは当てはめていくだけという方法が間違っているとは言えないのですが、似た者同士4~5名を一括で評価できる文章――同じグループのA君・B君・C君・D君・E君の保護者が、誰も違和感をもたないような単一の文章、それを考えるのって、すごく大変じゃないですか?
 そんな名文を7種類も作っている間に、35~36人の所見なんて簡単に書けてしまいそうな気もするのですが、いかがでしょう。
 
 

【通知票にネタ本はあるのか】

 同じことは通知票のネタ本についても言えます。
 いつぞや教育評論家の尾木某が、いかにも訳知り顔で、
「実は通知票の所見にはネタ本があるのですよ」
とテレビで話しているのを聞いたことがありますが、彼が紹介したのは教師向けの教育雑誌の付録でした。

「通知票所見文例200」だとか「総合的な学習の時間の評価100」とかいった文例集は、私が教員になった半世紀前くらいにもあって(あ、総合的な学習の時間はそれ自体がなかった!)、実際に新卒の時には私も買ったことがあります。
 しかし当時の受け持ち生徒数42名と対照すると、「文例200」との組み合わせ8400通りにもなってしまいます。

 例えば名簿番号1番のA君にふさわしい文例を探して1から辿って行き80番目くらいに良さそうな文章を見つける、しかしそれより先にもっといい文があるかもしれないので最後の200番まで読んで、“やっぱり80番かな”と考えて戻って書き写す。
 次に名簿番号2番のB君の評価を探して「文例200」に向かうのですが、このとき頭のいい人なら“B君にふさわしいのは156番のあの文!”とかいったことになるのでしょうが私はダメです。結局最初から、頭の隅にB君を置いて200番までたどっていくことになります。
 もちろん最後まで同じ調子で続けるのではなく、多少の知恵もつきますが、のべ8000回余りも読み続けることは間違いないでしょう。そんな苦労をするなら、42人分全部、自分で考えて書いた方がよほど楽です。

 したがって、
「通知票にネタ本はあるのか」
の答えは、
「あるけど、ほとんど使えない」
が正解いうことになります。
 
 

【通知票という私の武器】

 学校という教育の戦場での、先生たちの戦い方は千差万別です。何を武器とするかはその人によります。

 私にとって1学期の通知票は、とても重要な武器でした。日ごろめったに語り掛けることのないすべての保護者に、そして間接的にはその子どもたち(児童生徒)に、私が抱いているその子の心象・理解、そして思いや願いを伝える絶好の機会だからです。
「私はこの子のことをこんな子だと考えています。長所はこれこれこういう点だと感じていますが、それはああした事例からうかがえたことです。ただし、こちらのこういう点に関しては、まだまだ感心できない部分が残ります。あのときああしたことは確かに悪くないのですが、こうすればもっと良かったかもしれませんね。2学期以降、この点とあの点につては私も注意深く見ていきますので、お家でも気にかけて、ときどき訊ねてやってください。これからも頑張りましょう」
 こんなふうに書くことで、
「ああ、この先生はうちの子のことをしっかり見てくれているんだ」
「うちの子のこんないいところがあって、その点を評価してくれるんだ」
「ああ、こういうことに注意して行けばいいんだな」
と、そんなふうに考えてもらえれば、2学期以降ずいぶん楽になる面があると考えたのです。

 もちろん子どもを誉めるのに通知票の季節まで待っている私を咎める考え方もあります。私の知るある若い先生などは、年じゅう保護者に電話をかけていました。その内容のほとんどは、
「今日、〇〇君はこんなことをしててねえ、いやあ感心しました」
といった話です。そばで聞いてると初めのうちは虫唾が走るほどいやらしいやり方だと思ったのですが、なんどもなんども聞かされているうちに、“ああこの先生、やっぱいい先生だワ」と思えるようになってきます。
 こういう先生が、通知票までバカ丁寧に書く必要はないのです。私の武器は通知票ですが、この人の武器は電話だからです。
 
 

【実は私も手を抜いていた】

 かくいう私も、1学期通知票こそ異常な熱意を込めて書きましたが、2学期は懇談会直後ということもあって「懇談会で申し上げた通りです」でお茶を濁し、のちには同文のゴムスタンプまで作って押して終わりにしました。
 3学期の所見欄は基本的に「進級(卒業)おめでとう」と「頑張りました」といった内容だけです。もっとも1学期に書きすぎていますから、2・3学期は記入する場所さえありませんでした。

 さて、まだ仕上がっていない“通知票を武器とする先生方”、今夜は徹夜の勢いで頑張りましょう。どんなに仕事の遅い先生でも、この仕事が間に合わなかった例は(一人を除いて)まったくありませんから大丈夫です!
 

「人生の現場を離れると違う価値が浮かび上がってくる」~老い⑤ 

 老人は役に立たないと思われる時代が、そう長かったわけではない。
 ただ、今がそうだというだけの話だ。
 また、価値はひとつではなく高齢者には別の価値がある。
 だから後悔することは少ない。

という話。

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(写真:フォトAC)

 
 

【いつから価値は若者に移ったのか】

 どの時代も若者は生き生きとして老人は疎んじられていたのかというと、そうでもありません。中国の仙人も西洋の魔法使いも有力な存在はすべて老人と相場が決まっていますし、日本でも「姥捨て山」では国一番の知恵者が山に隠された老婆だったということになっています。
 イギリスの法曹界では今も白髪のかつらをかぶる習慣がありますし、バッハやモーツアルトの時代の音楽家・王侯貴族もことさら白髪を気取っていましたから、年寄りであることが価値である時代は確かにあったのでしょう。

 いつから価値は老人から若者に移ってしまったのか。
 これは単なる思いつきですが、日本の場合、最近では1853年にペリーが浦賀に来航して、欧米の文化が勢いよく流入してからではないかと思っています。時代が激しく動き始めると、保守的に安定していた高齢層はついて行けず、若者が時代の主役になっていくのです。
 1543年の鉄砲伝来と以後の南蛮文化の流入、さらに遡って600年の遣隋使派遣も、若者中心文化を惹起したに違いありません。若い戦国武将の活躍や留学僧の政治参加がそれを示しています。西洋でとりあえず思いつくのは産業革命です。

 それ以外の、例えば江戸中期の農村となると変化は緩やかで、経験や年季がものをいう世界ですから、自然と老人が尊敬されるようになります。現在でも職人や伝統芸能では、そうした遺習があるはずです。 しかしそれは社会における地位の問題で、充実とか幸福とか言ったこととは必ずしも一致しません。
 高い地位や尊敬が与えられれば幸せで充実しているかというと(そういう人もいると思いますが)そうでもないのです。
 
 

【現場を離れると違う価値が浮かび上がってくる】

「わが庵は 都のたつみしかぞすむ 世を宇治山と人はいうなり」
《私の庵(いおり)は都の東南にあって、このように平穏に暮らしているというのに、世を憂いて逃れ住んでいる宇治(憂し)山だと、世の人は言っているようだ》
という喜撰法師の述懐を、負け惜しみのように感じる人には理解できないことです。

「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の望月のころ」
 それが最大の望みだと歌った西行法師も同じでしょう。
 終わってみれば浮世の評価・地位の高低だのはどうでもいいことです。「うきよ」は「浮かれた世」であり、同時に「憂き世」なのです。

 子どもの頃、あるいは40代のころですら、私は老齢期の自分というものを想像できませんでした。50代となるとさすが具体的な計画を立てなくてはならないのですが、それでも想像するのは困難だったのです。
「晴れたら田畑を耕し、雨なら昔読んだ本を読みなおしたり新しい小説に目を通したり、無為を苦にせず、気持ちを揺さぶられることなく、穏やかに暮らしていく」
 そんな曖昧な姿しか思い浮かばなかったのですが、実際に始まってみると、案外これがいいのです。ひとはそれなりに生きていけるものです。
 
 

【もちろん問題もある】

 体力の衰えは想像以上でした。あちこちに不調が出てくる。
 多くの教員は1日に1万2000歩以上は必ず歩いています。今日はちょっと疲れたなと思って万歩計を見ると1万6000とか18000歩ということもあります。高学年の担任、あるいは中学校の教科担任は階段の上り下りも半端ではありません。それが一気に止まるのですからダメになるわけです。
 ウォーキングにいそしむ老人も少なくありませんが、半分かけ足の1万2000歩に匹敵する運動を続けるのは容易ではありません。

「嫌な奴と付き合わなくてもいい」という点は、良い部分として挙げようかと迷ったのですが微妙です。
 日本人の人間関係は大半が職場でつくられますから、そこから外れると人間関係自体がごそっとなくなってしまうのです。
 中でも現代の教員は「アフター・ファイブ」も仕事の時間ですから、飲み仲間もゴルフ仲間もボランティア仲間も、それどころか近所づきあいさえほとんどなくきたのです。今さら友だちのつくり方さえ分かりません。
 嫌な奴と付き合わない人生は、いい人とも出会えない人生で、ひとから学ぶということのない人生です。

 それだって大きく個人差のある問題で、退職を機に人間関係を広げる人もいそうですから心がけ次第でしょう。しかしこの点に関してのみ、私は少しだけ後悔しています。

(この稿、終了)
 

「食事が旨くなった・時間は自由に使える・保障された読書」~老い④

 退職したら思わぬ発見があった。
 仕事を辞めると食事が旨くなること、
 「時間をうまく使う」という概念がなくなること、
 おもしろい本がどこにあるのか、鮮やかに分かること、

という話。

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(写真:フォトAC)

 
 

【食事が旨くなった】

 妻はもともと家庭科の教師で、年じゅう作り置きをしていることもあって、15分もあれば1汁5菜を揃えられるような料理上手です。しかし私が退職するまで、特に美味しいと思って食べたことはありません。味わって食べるということがなかったからです。

 学校は労働基準法における休憩時間のうち、およそ20分~30分間を昼食時にあてるのが普通です。しかしこの時間にきちんと休憩をとっている教員は稀です。給食指導の時間と重なっているからです。
 給食の時間は、
「食品ロスを出さずに、児童生徒に必要な栄養およびカロリーを摂らせることを、強制なしに行う」
というとんでもなく難しい課題を、毎日解決しなくてはならない場ですから休んでいるわけにはいかないのです。
 しかも学級担任や教科担任にとっては、提出させた日記や宿題に目を通してひとこと書いたり記録を取ったりする時間でもあります。必然的に食べる速度は速くなり、5分~10分程度で食べ終わって仕事に励むのが一般的なのです。

 その速さは家庭にも持ち込まれます。先ほど「妻は15分もあれば1汁5菜を揃えられる」と書きましたが、そのくらいの速さで用意して、それに見合う速さで食べ、片づけないと、持ち帰りの仕事ができません。家に帰ってからも戦争状態です。

 いつだったか職員旅行でフランス料理のフルコースを体験したとき、料理の出てくる速度があまりにも遅すぎて全員でうんざりしたことがありました。個室のため食事の進展が見えなかったからでしょう。店は一般的な速度で次の皿を出してきたのだと思いますが、日常的に10分以内で食べている人に、45分もかけて食事を運んでも退屈するだけなのです(もちろんこちらが悪い)。

 その悪習が退職とともに改まりました。年寄りはゆっくり20回以上は噛んで食べなくてはならないと言われて励行すると、食事というのはおいしいものですね。食べているのは同じ料理なのに、以前は味わうことをせず、ただ栄養とカロリーを摂取していただけなのです、30年以上も。

 齢をとると舌がバカになってものが不味くなると言いますが、今のところは逆です。教員に限らず、食事がいい加減になっているサラリーマンはいくらでもいるでしょう。その人たちに言っておきます。齢を取ると食事が旨くなる場合があるのです。
 
 

【時間は全部自分のもの】

 24時間すべてが自分のもので、どう使ってもよいという状況が不向きな人もいます。私もかつては自分がそうだと思い込んでいました。
 例えば受験生だった時、あるいは大学生になってからの長期休み、さらには次も決めずにさっさと仕事を辞めて実際には教職浪人となったとき、私は自分の自己管理能力の低さに呆れ、絶望したものです。ホトホト他人から使われる人間だと思い知らされた体験でした。

 ところが今になってわかることは、自分はダメだなあと思ったそれぞれの時期には、やるべきこと、果たさなくてはならない目標があったのです。それができなかったから「ダメだなあ」ということになったので、「なにがなんでもやらなければならない」ことがなければ、時間はどう使ってもかまわないのです。
 うっかり3時間も昼寝をしてしまったとしても、困るのは「夜寝られないかもしれない」、その程度のことです。あり余る時間を自由に使って後悔がありません。
 
 

【保障された読書】

 自分を振り返る時間がたっぷりあります。
 思い出にふけるのもいいでしょうが、私がやっているのはむかし読んだ本の再読です。

 読書というのもなかなかムダの多い作業で、必ずしも常に良書と出会うわけにはいきません。特に仕事関係で読んだ本の中には、買ったこと、ムダにした時間を悔いる場合が少なくなかったのです。
 しかし今や必要に迫られて読書することはありません。読みたいものだけを読めばいい。しかもどこに良書があるかはよく分かっているのです。

 幸い私は記憶力に大きな問題を抱えていますから、「あの本はすごくおもしろかった」と覚えていても中身までしっかり記憶しているものはほとんどありません。したがって自分の書棚に向かって良書と分かっている書籍を、引き出して読めばとても新鮮ですばらしい読書体験ができるのは間違いないのです。
 こうして私は、日々の確実な読書生活を保障されるわけです。

(この稿、明日、最終)

「若者よ、しかし悪いことばかりではない」~老い③

 年老いた人間の生活を、若者はあまりにも低く評価する。
 老いて醜く、誰からも期待されず、
 社会に寄与するどころか邪魔にさえなっている――。
 だが若者よ、そんなふうに見える高齢者の生活、悪いことばかりではないのだよ。

という話。

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(写真:フォトAC)

 
 

【「老人」も、そこまで悪いものではない】

 NHKのEテレ「100分 de 名著」の第3回(12日月曜日夜)は「老いと性」がテーマで、それはそれでかなり面白かったのですが、今の私の流れとは合いませんので、考えるとしたら別の機会にしたいと思います。
 その上で、

 ボーヴォワールにケチョンケチョンにけなされ、井上陽水に憐れまれ、長谷川町子には戯画化されてしまった「老人」というものも、そこまで悪いものではないだろうというお話をしたいと思います。

 ただし、それは60代後半を生きる私が自分の実人生をかなり気に入っているという話であって、決して一般化できるものではなく、かつこういうふうに生きなさいというものでもありません。

 考えてみれば平均寿命が男女ともに80歳を越え、60歳の定年退職から数えると平均余命が24年(男性)から29年(女性)もある国のことです。退職ホヤホヤと前期高齢者と後期高齢者を一緒くたに語るというのは、最若年に移し替えると乳幼児と30歳前を一緒にするようなものですから、ムリがあるのです。
 ですから、あくまでも前期高齢者の仲間入りをしたばかりの、その位置での話としてお聞きください。
 
 

【60年ぶりにゆとりを手に入れた】

 まず、10代の若者に言っておきます。まだ生徒・学生のキミたちは、「大人になったら終わりだ」「就職したら自由はなくなる」と思っているかもしれませんが、私が学校を卒業してから一番最初に手に入れたのは、まさにその「自由」だったのです。大人になったおかげで自由になりました。
 何から自由になったのかというと、意外と思いつかないかも知れませんが、「定期試験」からの自由です。

 もちろん世の中には試験が向いていて、努力が成績に反映しやすく、やっただけの点数が取れて有能感や自己効力感を得やすい人はいます。そういう人はいいかもしれませんが、私の場合は昔の炭鉱のボタ山を登るがごとく、“三歩進むんで二歩下がる♬”ならまだしも、踏み込みが甘くて数メートルも滑落してたり、10㎝も進めなかったり――たいへんな無駄足を踏んだ上での低評価ですからかなわないのです。

 もちろん大人になっても「評価」そのものがなくなったわけではありません。しかし2カ月ごとに試されるとか、それによって近未来が変わってしまうとかいうこともないので、気分はほんとうに自由です。また、教員でしたから出世にも関心はなく、出世に関心がないと評価といっても大した問題ではなく、その「ゆるやかな評価」さえも、退職と同時になくなってしまいました。

 今は締め切りという概念もありません。もちろん畑を持っていますから、「その苗は今夜中に保温をしなければ霜にやられてしまう」といった締め切りはありますが、隣の畑を見て合わせて行けばいいだけのことです。
 それが目下、老人となった私が手に入れた最大のもの、60年間一度も手にしたことのなかったゆとりです。
 
 

【憂いのない生活】

 趣味として行う農業はほとんどストレスがありません。努力や勉強の反映しやすい世界です。気候によって大きく左右され、ときには一作物全滅ということもありますが、失敗の原因は明瞭でむしろ清々しい――。恋愛も営業も相手があってのことで何が悪かったのか、それどころかうまくいったときも何が幸いしたのか分からない――そういうことがあります。気苦労の多いことですね。

 うすうす想像はついているのかもしれませんが、老人になると金がかかりません。
 一山越えて分かるは、やはり一番金のかかったのは子どもの養育費だということ。特に一番収入のいいはずの50歳代に子どもが大学へ進学しており、私の場合は二人とも東京に住まわせての二重三重生活でしたで、月々の支出はひとりの月給ではまったく補いきれません。それが二人の就職でパタッとなくなりました。
 私の退職で収入もなくなりましたがそれを上回る支出もなくなって、むしろ楽になった、それが実情です。

 「金を稼ぐための支出」というのもバカになりません。
 月々のガソリン代は支給される交通費では賄いきれるものではありませんし、スーツも時々買い替えなくてはなりません。教員社会ではほとんどない飲み会も、納会だの忘年会だので出て行く金は時に1万円を超えました。ところが今は、1万円あれば半年(家で)飲めます。

 幸い私たちは夫婦で教員だったので、現職中は死ぬほど忙しく、旅行もしなければ外食もせず(というのは家で食べれば30分で済む食事も、外食となるとどうしても1時間はかかるのです)、遊ぶ習慣もなければゴルフといった金のかかる趣味もありません。
 ほんとうになかったのは金よりも時間だったのですが、それでも普通の人よりはかなり慎ましい、貧乏みたいな生活をしてきました。おかげで今はわずかな年金でも食うに困りません。以前と同じレベルの生活です。

 子どもは二人とも大人になって離れたので、成績や交友関係、進学だの就職だのといったことで悩むこともありません。総じて生活に憂いがないのです。

 しかし歳をとってよかったということはまだまだあります。

(この稿、続く)

「若い人から見ると老人はやはり――」~老い②

 若い人たちは私たち年寄りのことをどんな目で見ているのだろう。
 歌や漫画に出てくる老人は実年齢よりさらに年老いている。
 それはまさに若者が年寄りを見る目そのものではないだろうか。
 私たちは思った以上に、つまらない存在と思われているのかもしれない。
という話。

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(写真:フォトAC)

 

 

【人生が二度あれば】

 先週、NHKのニュース解説の番組を見ていたら、お堅い番組であるにもかかわらず、49年前の井上陽水のデビューシングル「人生が二度あれば」が流れてきました。

 
 人生が二度あれば
 父は今年二月で 六十五
 顔のシワはふえて ゆくばかり

(中略)
 湯飲みに写る
 自分の顔を じっと見ている
 人生が二度あれば
 この人生が二度あれば

という歌です。

 解説者の目論見としては、半世紀前の65歳はこのように年老いていた、しかし今の65歳は元気で――ということで高齢者雇用の問題に話を振り向けたのですが、私はふと考え込んでしまいました。

 

 

 【65歳はどこまで年寄りか】

 私は亡くなった父が30歳の時の子どもです。したがって父が65歳の時、私は35歳でした。娘が生れた年ですからよく覚えているのですが、当時65歳の父はそこまでヨボヨボではなかったのです。
 娘の生まれる半年ほど前、いきなり父から電話がかかってきて、
「いまどこにいると思う?」
と聞くので、
「そんなこと、わかるわけないだろう」
と返すと、家から500kmも離れた場所を言い、
「今朝、思いついて車で母さんとここまで来た」
とか言います。60歳を過ぎた年寄りにそんなに走られてはかないませんから、少し嫌味を言ったかもしれません。そのくらい元気だったのです。
「人生が二度あれば」と少し感じが違います。

 調べるとこの曲は井上陽水が24歳の時に発表されたものです。したがて「父は今年二月で 六十五」が実話だとすると、二十歳に近い陽水の見た65歳です。35歳の私の見る65歳とは違っていたのかもしれません。若い人ほど、同じ65歳でも年老いて見えるのかもしれないということです。

 

 

【波平さんは54歳】

 同じことは漫画「サザエさん」についても言えます。
 よく知られた話ですがサザエさんのお父さんの波平さんは永遠の54歳です。
 頭頂部が禿げて毛が一本立っているだけで、丸めがねにちょび髭を生やし、家ではいつも着物を着て正座で過ごしています。そんなふうで、だから相当な年長者の印象がありますが、考えてみると現役のサラリーマンですから60歳前は当然です。
 趣味は囲碁・盆栽・釣り・俳句・骨董品の収集とかなり幅広いですが、釣り以外はすべて老人の印象を伴うものばかり。

 原作者の長谷川町子さんは14歳でお父さんを亡くしていますから、「24歳のサザエさんの54歳のお父さん」というキャラクターを設定しようとしたとき、現実の50歳代の父親の見本がないため、心象の中にある54歳を手本に移し替えたのかもしれません。それがあの年老いた波平さんです。

 

 

【若い人から見ると老人はやはり――】

 若者の見る年寄りは、実年齢よりもさらに更けているのかもしれない。それは老成という概念と深くつながっているようにも思えます。

 私は三十代も四十代も五十代も経験してきましたから、それがまったく大したことないことをよく知っていますが、未経験の若者からすれば、未知の、何か謎めいた遠い存在ということになりそうです。すると必然的に、はるか向こうの世界の人ということになってしまいます。

 考えてみると私自身が二十歳のころ、三十代の大人はかなりしっかりして迷いなく人生を送っていました。四十代・五十代の中年諸氏は人生に恐れるものがまったくなく、力ずくで社会を振り回していました。そして六十代ともなるともうほとんど仙人の世界です。具体的な姿は思い浮かびませんが、未来に夢もなく、過去を振り返ることを糧に日々、死ぬ日を待っている、その程度の存在だと思っていたのかもしれません。社会的にはまったく役立たず、年金という形で税金を食いつぶし、やがて誰かの世話になっていく――。

「人生が二度あれば」の二番では母親が登場し、
そんな母を見てると 人生が
だれの為にあるのか わからない

とまで歌われます。

 若い人から見ると高齢者なんて少しも羨ましくない。人は学校も就職も結婚も自分で決められるのに、いつ死ぬかだけは(自殺を考慮しなければ)自分で決められないのです。井上陽水の歌にあるように、年老いた自分の姿を湯呑の中に見つめ、ただ死を待つ毎日――ああ、ヤダヤダ、といったところなのでしょうか?


(この稿、続く)