カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「ワンダー・ワールド」~世界が分からなくなった

 文在寅大統領やドナルド・トランプ大統領の支持率は
 なぜ下がり切らないのだろう
 今の状況は 私の学んできたことに あまりにも反する
 少し立ち止まって考えてみることにした

というお話

f:id:kite-cafe:20190514080014j:plainエドワード・ジョン・ポインター 「シバ女王のソロモン王訪問」)

 

【何をやっても支持される大統領】

 私は大学で政治学を学びました。
 だからひとよりは少しだけ政治に興味が深く、多少詳しいという意味です。そして古い政治学に毒されているという言い方もできます。
 古いのでもう通用しない面も多いと思うのですが、それにしても今日の国際政治は分かりにくい。

 例えばこんな大統領がいるとしましょう。
 その政策別評価は、「経済政策」が肯定23%(否定62%)、「公職人事」が肯定26%(否定50%)、「雇用労働政策」は肯定29%(否定54%)。かつて肯定的評価の高かった「外交政策」は74%から45%へ急低下。目玉政策支持も83%から45%へ。
 さて、この大統領の総合的な支持率は?

 まあ惨憺たるものと思いきや、これが45%もあるのです。
 韓国の文大統領、目玉政策と言うのは対北朝鮮政策のことです。

 かつては84%もあったのですから半分近くに下がったわけですが、それでも2年目の大統領としては歴代で二番目の高い数字だそうです。支持率45%をなかなか越えられない安倍首相よりも、いつも良い数字です(最新データでは安倍首相は47%)。
 私にはそれが理解できない。

 あれもダメ、これもダメ、けれど全体としては「まあいいか」「これで行こう」という感じになるのです。なぜか。
 そう言えば朴槿恵前大統領も、最後の数カ月を除けばいくら失政を繰り返しても40%を割ることはありませんでした。鉄壁の支持者がいたわけです。
 
 
 

【背反する理念を持つ人々からさえ支持される大統領】

 分からないといえば、ドナルド・トランプと言うアメリカの大統領も分からない。

 3年前の選挙で主として中南部の貧しい白人たちの支持を受けて当選したわけですが、アメリカのプア・ホワイトたちは、なぜあんな大金持ちを自分の味方だと信じることができたのでしょう。この件は最初から疑問でした。

 父親から財産を受け継いだだけの傲慢なお坊ちゃま、次々と美人を女房にして放蕩三昧。自分の持ちビルに「トランプタワー」と名付けて恥じない厚顔。コメディアンもしていましたから多少奇抜で面白いかもしれませんが、気分のいい男ではありません。同じ白人として嫉妬や揶揄の対象にはなりえても、仲間と見做すのは気分のいいことではない、――それが当たり前だとおもったのですが、そうはなりませんでした。

 選挙運動期間中、次々と女性スキャンダルが出てきて、これで女性票は遠のくと思ったのにそうはならなかった、これにも驚かされました。
 女性スキャンダルと言えば、副大統領のペンスさんはアメリカ3億2800万人の中で最もスキャンダルと縁の遠い人です。何しろ夫人以外の女性とは食事をともにすることもなく、選挙や仕事のスタッフも女性だと早く帰宅させてしまうほどですから。
 そのペンスが破廉恥トランプの右腕なのです。

 トランプという人は不信心・不道徳を絵にかいたような人なのですが、ペンス副大統領も属するアメリカでもっとも敬虔なキリスト教徒「福音派」がこれを支持しています。イスラエルの首都をエルサレムと認めるなど福音派よりの政策を実行するからでしょうが、そうなると、
福音派は神のためなら悪魔とも手を結ぶ」
と言うことになりかねません。それでいいのでしょうか?

 元に戻って、トランプの法人税減税や公的資金抑制はプア・ホワイトの生活に重大な危機をもたらしています。貧しい白人の年金は減り公共の学校・病院・高齢者施設は予算を減らされました。その上に公約通りオバマケアが見直されたりすると彼らは病院にも行けません。
 それなのにトランプは支持されているのです。なぜでしょう?

 そんなことは昔の政治学は教えてくれませんでした。
 
 

【ワンダー・ワールドを読み解く】

 これはもしかしたら世界で、政治のやり方や選挙のあり方が変わってきたからではないのかと、最近思い始めました。

 かつて政治家は自分の地盤を押さえた上で、どれだけ多くの浮動票を獲得するか、中間層を取り込むか、さらには相手の支持基盤をどれだけ切り崩すか、ということを問題にしたのに、現在は自分の支持基盤は一票も取り落とさない、そうすればあとはなんとかなると考えているようなのです。

 奇しくもトランプ大統領の支持率は40%弱から45%強です。文大統領の支持率も45%前後、そして安倍首相も直接選挙ではありませんが40%弱から45%強と言ったところです。つまり国民の4割少々が確実に支持してくれるなら、国家元首は勤まるということです。その4割のためだけに働けばいい。

 分かり易いところでトランプ大統領についてみれば、どんなにふしだらで女性差別的であっても、一部の女性は「私にセクハラをしなければいい」「私が被害者でなければいい」「何らかの利益を与えてくれればいい」と、そう考えているのです。

 トランプが不信心・不道徳であることは、福音派にとって少しも困ることではありません。しかしイスラエルに肩入れをしてエルサレムを首都と認め大使館を移転してくれることは、大きな利益です。

 貧しい白人にとって、トランプの政策がもたらす負の効果(貧困のさらなる進展、年金の減少、医療費時の上昇など)はすぐに実感できるものではありません。しかし移民から白人を守り、何があっても銃を取り上げない頼もしい大統領と言う面は、実に見やすいのです。

 韓国の事情はよく分かりませんが、朴槿恵前大統領をギリギリまで支えた40%の保守派(韓国南東部・慶尚道を支持基盤とする人々)の反対側に位置する人々、南南葛藤のもう一方の当事者、つまり進歩派と呼ばれる(韓国南西部・全羅道を支持基盤とする)人達は、「今はうまく行っていないかもしれないが進歩派大統領は必ず自分たちのために成果を出してくれる」「どんなにうまく行かなくても朴槿恵のような保守派に政権を戻すよりはマシ」と考えて頑張っているとしか考えようがないのです。
 
 

【日本のゆくえ】

 日本も米韓と同じように一強多弱ですが印象はずいぶん異なり、「何が何でも安倍」も「安倍だけは勘弁」も双方とも少ないような気がします。それでも「一強」になってしまうのは、やはり政治に大きな争点がなく、国民は「現状におおむね満足」しているからでしょう。経済がうまく行っているときは、人はあまり文句を言わないのです。

 また、かつての民主党政権に対する深い失望と恐怖がありますから、多少のことでは自民党を見限って野党に肩入れしようという気にはなれないのです。

 ただし昨日のニュースにもあった通り、いよいよ景気も下降局面。そろそろ日本にも大いなる分断のときが来るのかもしれません。そうであっても米韓のような極端な右傾・左傾にならないよう見守っていきたいものです。
 
 
 

「今の状況では児童虐待を見落とす」~虐待対応の手引きが発表されたが

 もっとも児童虐待を発見しやすい組織が学校である
 したがって教師は 真剣な目で子どもたちを見続けなくてはならない
 しかし現在の状況で
 果たして危うい命をすべて救い出すことができるだろうか
 仕事を増やす一方で人は増やさず
 それで責任を負えというのはあまりに酷だ

というお話

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【虐待対応の手引きが発表された】

 文科省は5月9日「学校・教育委員会等向け虐待対応の手引き」を公表しました。

 これは本年(2019)1月に千葉県野田市で発生した小4女児の虐待死などから得られた教訓をもとに、
 学校や教育委員会等の関係者が虐待と疑われる事案について、迷いなく対応に臨めるよう具体的な対応方法についてまとめました。学校・教育委員会等におかれては、実際の対応の際はもとより、研修の実施に当たっても本手引きをご活用ください。(「学校・教育委員会等向け虐待対応の手引き」-はじめに)
とされるものです。

 内容を見ると、虐待の定義から虐待が子どもに及ぼす影響、学校や教育委員会の役割、日ごろの観察の仕方から通告までの流れ、通告先・通告のしかた、通告後の流れ、子どもや保護者との関わり方、転校・進学時の対応と、実に懇切丁寧でこの冊子に書かれたことをきちんと行うだけで、最低限の仕事は果たせそうです。

 特に「虐待リスクのチェックリスト」は常に心に留めておくに値するもので、「保護者との対応」(保護者からの問い合わせや要求に対して=手引きP34~35)は一読しておいて、いざという時に読み直し、心構えをしておくと面談する際もずいぶん楽な気持ちで接することができると思います。

 ぜひ、ご一読を。
――と、文科省に敬意を表してとりあえず書いておきます。
 

【しかしこれを使うのは大変だ】

 しかしこの「手引き」、中身はなんと37ページもあるのです。

 私は暇人ですので最後まで読むことができましたが、一般の教師にこれ読んで頭に入れろとはとても言えない代物です。

 いったん誉めた「虐待リスクのチェックリスト」ですが、これも内容が細かすぎてかなり強く虐待が疑われる場合に通告先に説明する以外に、これといった使い方が思い浮かびません。そもそもあんなに細かな内容、私などその半分も記憶に留めておくのが困難です。

 さらに心配なのは、野田市で起きたのと同様の事件があった際、「文科省があれほど丁寧なものを出したのに学校は何をしていたのだ」と「手引き」を盾に責められはしないかということです。
「あんな大部のものはとても頭に入りません」
とは口が裂けても言えません。

 マスコミや世間はしばしば忘れてしまいますが、教科をはじめ道徳や総合的な学習の時間、特別活動などの準備や授業をしているだけで、現場の教師はいっぱいいっぱいなのです。

 ほんとうに虐待を(少なくとも虐待死を)なくそうとしたら、中規模以上の学校には最低一人の「虐待問題対応教員」が必要です。朝から晩まで子どもをチェックし、特に心配な子については常に顔色等まで確認し続ける専門職員――。
 
 ところがそんなことを言うと政府が必ずやるのは、現有の職員に研修を受けさせ、肩書を与えて放置するというやり方です。
 司書教諭しかり、特別支援コーディネーターしかり、栄養教諭しかり。副校長でさえ必要とされて配置されたとたんに教頭がいなくなってしまいました。
 統計上は「司書教諭を配置」「全校に特別支援コーディネーターを配置」といっても、実は一部に責任を負わせ、職員はひとりも増えていないのが実情です。
 私の言った「虐待問題対応教員」ですが、早めに取り下げておいた方が学校のためかもしれません。

 しかし、だからと言って「手引き」を取り下げろとか、虐待問題に関する学校の責任を問う名と言う気は毛頭もありません。
 野田の事件を思い出すだけでも、胸が痛み、それは絶対に学校がやるべき仕事だと、私も思うのです。
 しかし、だったら、仕事を減らせ、そういう話です。
 
 

【スクラップ・アンド・ビルトをしない学校は滅びる】

 では学校の仕事で減らせるものは何があるのか。

 こういう話になるとすぐに部活動の軽減といったことになりますが、部活を減らしても虐待の主戦場である小学校の先生が楽になるわけではありません。
 減らすべきは他にあります。

 例えば今、私の妻は教員免許の更新手続きにあれこれ大変な気遣いをしています。定年退職で再任用を受けたばかりですが、10年近く前に別の免許を申請したために来年度が更新なのです。
 その手続き、必要な講座を探して時期をチェックし、通える範囲かどうか他の行事との重複はないか、そうしたことを調べて申し込み、各種アンケートに答えて受講料を払うのはけっこう大変なのです。
 そこまで苦労して受けたとしても、講座がどこまで価値あるものなのか――。
 
 学校教育の知は大学よりもむしろ現場にあります。教員歴40年になろうという妻は受講生としてよりも講師としてその場にいるのがふさわしい――と手前味噌で私は思います。
 40年とは言わず、10年も真剣にやればどんな職にあっても普通は一人前になります。それに教員には更新講習以外に山ほどの研修機会がありますから、いまさら強制的に受けさせる必要もないのです。

 もちろん文科省が、学校法人としての大学を資金面から援助しようとして維持している制度だ、と考えるなら別ですが、医師も看護師も弁護士も行政書士も、およそ「し」とつく資格で10年ごとに金を払って勉強し直しなさいと言われているものは教員だけです。著しく教員の誇りを傷つける制度です。
 こんなものはやめた方がいい。

 他にもやめるべきものはいくらでもあります。
例えばまだ全面実施になっていないから今から引き返せる(かもしれない)小学校英語にプログラミング。

 そう遠くない近未来に優秀な翻訳機がつくられ、わずか25年でコンピュータ自身がコンピュータをプログラムするというシンギュラリティが訪れるというのに、陳腐化することが分かっている技能のためになぜ全児童が学ばなければならないのか。

 そんなムダな教育のために教師の力が割かれ、虐待を疑う目が曇ったらどうしてくれるのだ! と私は思います。
 
「スクラップ・アンド・ビルト」
 何かを壊さずに新しいものをつくってはいけないという重要な言葉です。それをしないから教師は疲弊しざまざまなことが中途半端に終わります。

 ただし私ももう叫ぶのはやめましょう。
 もはや教師のなり手自体が深刻なほどに減っているのです。

 更新講習を受ける教師がひとりもいなくなれば、この制度も自然消滅するのですから。
 もちろん虐待問題に真剣に取り組もうとする先生も。
 
 
 
 

「素人に予見できるものは実現が遅れ、予想しないものはカエル跳びする」~令和はこうなる(最終)

 ほんとうにやりきれない交通事故が続いている
 しかしそれは必ず克服されるはずだ
 場合によって 科学の進歩は驚くほど遅いが
 これまで思いもしなかったやりかたで
 一気に時代を進めることもある
 怖れず 令和の時代を生きて行こう

というお話

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【重大事故が相次いでいる】

「4人が意識不明」という第一報を聞いた段階で、すでに声を上げて泣きそうになりました。一昨日の滋賀の交通事故の話です。
 歳を取ると涙もろくなるというのは事実です。なぜかわかりませんが。

 私の孫のハーヴはまもなく4歳になりますが、1歳から4歳というのは人生の中でも最も可愛い時期で、まだ会話も十分ままならない2歳児が、4人も意識なく路上に倒れているのを想像したら、不覚にも涙が零れ落ちたのです。
 子を亡くされた親御さんや孫を亡くされた祖父母のことを思い遣ったのは、その後のことです。

 この記事を書いている段階では、信号が青(右折も可)の状態で、対向車があったにも関わらず無理に右折した乗用車の方により大きな過失があったかのように報じられていますが、実際に子どもをはねたのは直進車の方で、そう考えるとこちらこそ救いがありません。
 亡くなった幼児、重軽症を負った子どもたち及び保育士さんたちはもちろん、交通事故は関係したすべての人々にとって不幸です。

 先月は池袋で87歳の男性による重大事故があって、一組の母子が亡くなっています。加害の高齢ドライバーは東大卒の元通産省理系エリートで、知る人ぞ知る人物だそうです。しかしそうしたキャリアも今回の事故ですべて帳消しとなり、場合によっては余生を交通刑務所で過ごすことになります。年齢が年齢だけに入ったとしても、きちんと罪の償いを全うすることすら難しいのかもしれません。

 わが家でも、妻は私のことを信用していませんから、今から、
後期高齢者になる前に、運転免許は返納しましょうね」
などと説得にかかっています。
 しかし私に、その気はまったくありません。
 
 

【私は90歳でも運転しているだろう】

 理由は三つあります。
 一つ目は私が運転が好きだということ。しかしこれは大した理由ではありません。

 二番目は田舎人間ですので、何をするにも自家用車がなければ大変だということ。
 一番近いスーパーマーケットまで、現在の私でも歩いて30分以上。コンビニは比較的近くにありますがそれでも10分はかかります。
 距離だけで言えば内科医も床屋も近い場所にあります。しかし前者はヤブで後者は野暮ですので本当は行きたくありません。歯科医と薬局はバスを使わないと行けません。
 畑をやっているのですが、資材を購入するためのホームセンターは徒歩40分。とてもではありませんが肥料を担いで帰れる距離ではありません。
 そのつどタクシーを使うというほどの経済的余裕もないのです。だから自家用車は手放したくない。

 しかし私が後期高齢者になっても免許証を手放さないだろうと考える最大の理由は、そのころまでには技術的、制度的に、高齢者が運転をしても大丈夫な運転環境になっているのではないかと思うからです。
 10年経ったら池袋の事故はない、20年経ったら滋賀の事故もない、そんなふうに考えるのです。
 
 

【近未来の車】

 池袋の事故について言えば、現在でも最新型の車なら防げたのではないかと思います。最新プリウスの「セーフティ・サポートカーS<ワイド>」はカタログによると、「被害軽減(自動)ブレーキ(対歩行者)、ペダル踏み間違い時加速抑制装置、車線逸脱警報、先進ライト」搭載だそうですから、きちんと作動していれば事故は防げたことになります。
 現在は「道路状況、車両状態、天候状態およびドライバーの操作状態等によっては、作動しない場合があります」との添え書き付きですが、10年後はさらに性能を高めているはずです。

 また滋賀の事故について言えば、右折して衝突した車の運転者ではなく、車両本体が直進対向車を認識してブレーキをかければ、あるいは直進して来て右折車をよけ切れず、結局跳ね飛ばされて園児の列に突っ込んだ軽自動車の方が、自身の能力で巧みに右折車をかわし、かわしきれない場合も瞬時にハンドルを右に戻して元の車線に戻っていたらあのような重大な事故にならなかったはずです。
 
 これだけ話題になっている問題です。さらに今後高齢者が増え続けることを考えると需要はたっぷりあるのですから、20年もあればどちらかの機能は完成していることでしょう。

 あとは制度的に「後期高齢者が引き続き免許を更新したい場合は『ハイテクカー限定免許』に限る」といったふうにすればいいのです。その車は制限速度を検知してそれ以上1㎞/hも余計に速く走れないでしょうが、私も我慢しましょう。制限時速ぴったしでトコトコ走る私のあとに続く車にも、我慢してもらわなくてはなりません。それが高齢ドライバーによる無用な死者を生み出さないための社会的コストなのですから。
 
 

【素人に予見できるものは実現が遅れる】

「素人に予見できるものは実現が遅れ、予想しないものはリープフロッグ(カエル跳び)する」
 それが長く生きてきた私の実感です。

 例えばジュール・ベルヌの「月世界旅行」で人類が初めて月に到達したのは186X年ですが、実際に人間が月に降り立ったのはちょうど百年後の1969年でした。
 映画「2001年宇宙の旅」では、冒頭の場面で主人公のひとりが背広で宇宙船に乗り込み、宇宙ステーションに向かいます。しかし2019年の今日も、宇宙旅行はそんなに簡単なものではありません。
 1970年ごろ、がんの根本治療は21世紀に入って間もなく完成すると考えられていました。しかし世界中の研究者が真剣に取り組んでいるのにも関わらず、そんなものはいまだに存在しません。

 かくありたいと思う私たち願いが、現実の困難をすべて無視して、夢を手前に引き寄せてしまうのかもしれません。
 したがって令和の時代も、表面的な世界の風景は今のままほとんど変わらず続いていくものと思われます。
 
 

【技術はカエル跳びをする】

 ところが科学技術は、私たち素人の予測を突然断ち切って、まったく異なる場所に連れて行ってしまうことがあります。

 技術や経済が段階的な発展過程を跳び越えて一気に進歩してしまう現象――例えば新興国で固定電話の段階が飛ばされスマートフォンがいきなり普及するようなことを「リープフロッグ(カエル跳び)型発展」と言いますが、それと似たことが最先端の場で起こるのです。
 例えば音楽のネット配信がそれです。

 日本でソニーや日立からCDプレーヤーが発売されたのが1982年のことでした。針でレコード盤を引っ掻くアナログレコードプレーヤーからの転換は画期的で、以前のようにホコリを気にしなくていいだけも、ずいぶんとありがたい装置でした。
 ただし傷がついたり汚れたりしないように気を遣うのは同じで、いつかそんなことも気にせずに持ち運べる媒体が現れるはずだと思っていたら、ほどなくMD(ミニディスク)が発売され私の予想は当たります。
 あとは技術革新でひたすら情報量を増やしていくだけです。これ以上小型化するとかえって扱いにくいのだから・・・と思っていたら、なんとネット配信によって物理的メディア自体がなくなってしまったのです。これは全く予想できないことでした。

 私だけが愚かだったわけでないことは、2000年代くらいのSF映画を確認してみるといいと思います。きっと誰かがMDのような媒体を口に咥えて、無重力の宇宙船内を泳いでいるはずですから。

 メールやSNSといったものも変種のリープフロッグでした。つい20年ほど前の学校の、最大の問題のひとつは「子どもの文字離れ」だったのです。
 手書きではないにしろ、朝から晩まで子どもたちが文字をいじる時代が来るとはまったく考えもしませんでした。
 
 

【令和の科学はこうなる】

 私は一面、非常に楽天的な科学信奉者です。
 科学はときに災厄を生み出すこともありますが、その災厄を解決するのも科学だと思っています。

 そうやって科学が支えるのは人間の生活そのものであって、科学が科学自身のために世界を塗り替えることはありません。その意味で令和の間くらいは、私たちを取り巻く環境は大きく変わったりしません。

 コンピュータが人間の英知を越え、コンピュータ自身がコンピュータをプログラムすると言われている「シンギュラリティ」は2045年が予定されています。順調に行けば令和の間の出来事ですが、それとてきっとたいしたことはない――。
 そのときおそらく、人間はたくさんの「人間にしかできないこと」を生み出しているに違いないからです。
 
 
 

「日本が東アジアを主宰する」~令和はこうなる3

 平成は東アジアの安定が一気に崩された時代だった
 世界で最も安定していた地域が 一気に流動的になった
 令和はその流れを引き継ぐだろう
 日本はその東はずれにあって 動かないことで東アジアの安定を主宰するだろう
というお話

f:id:kite-cafe:20190508202619j:plain(ヘリコプター搭載護衛艦「いずも」:左)

【「いずも」が来た】

 昭和の終わりのころ、生徒にアメリカやイギリスの航空母艦の写真を見せてその働きを簡単に説明したあと、
「ところで日本の自衛隊には空母が何隻あると思う?」
 中学校の社会科教師だったころ、日本の平和憲法について学習する端緒がいつもそれでした。

 自衛隊保有する航空母艦の数はもちろんゼロ。空母というのは外国の領土近くまで侵入して、そこから戦闘機による攻撃を可能とする、その意味では徹底して外征的・攻撃的な艦船です。専守防衛を旨とする自衛隊保有できるはずもありません。それが昭和の常識でした。

 ところが平成の終わり近くになって突然「いずも」という、どこから見ても空母にしか見えない自衛艦が出現して、私は度肝を抜かれるのです。

 もちろんあれだけの大型艦が秘密裏に造られて突然姿を現したというのではなく、きちんと国会で予算を通し通常の手続きを経て建造されたはずですが、その時どきのニュースを、私はいちいち見落としていたのです。
 しかし私のような暇人ニュースマニアが見落とすということは、大した反対運動もなく、国会がもめることもないまますんなりと通過したに違いありません。

 ヘリコプター空母(正式には「ヘリコプター搭載護衛艦《DDH》」)だとしても垂直離着陸機なら簡単に搭載できる大型の自衛艦、そんなものが生まれるなんて――昭和の時代には夢想だにできず、平成の前期だって考えられないことでした。

 今から思うと平成も三分の二が終わり、まだ名前のついていなかった「令和」の足音が聞こえるころになって、空母と見まごう自衛艦の建造を可能とする社会的雰囲気が醸成されていたのでしょう。

 

【平成は東アジアの均衡が崩れた時代だった】

 「いずも」の建造の背景に、東アジアの政治情勢の、大きな変化があるのは間違いありません。

 たとえば1980年代半ば(昭和60年前後)まで、日中関係は日米関係と同じくらい良好だったのです。それが1989年(平成元年)の天安門事件をきっかけに一気に悪化し、小泉首相靖国神社参拝を契機として始まった反日暴動(2005年=平成17年)を経てすっかり“きな臭い”ものになってしまいました。

 韓国とはやはり靖国問題で燻った後、2012年(平成24年)の李明博元大統領による竹島上陸および天皇謝罪要求問題によって関係がぎくしゃくし始めて、それ以来、悪くなる一方です。その後、日本では2次・3次と言われる韓流ブームが起こり、今や日韓合わせて1000万人もの観光交流があるというのにも関わらず。

 北朝鮮についっては2002年(平成14年)の小泉訪朝・金正日総書記拉致謝罪によって日朝新時代の幕開けかと思ったら、むしろ関係悪化の契機となってしまいました。北朝鮮拉致問題で誠実な対応をしていないことが分かったからです。北朝鮮も、一時帰国させたはずの拉致被害者を日本が返さなかった(当然ですが)ことで、すっかりヘソを曲げてしまいます。

 今、改めて振り返ると竹島尖閣も、昭和の間はほとんど問題になりませんでした。メディアも扱わなければ学校でも教えません。学校で学ぶ領土問題といえば北方領土だけで、竹島の「た」の字も、尖閣の「せ」の字もなかったのです。

 私は社会科の教師ですから竹島尖閣も知っていました。ですから当時は北方領土の学習のたびに、
「仲の良い中国・韓国との領土問題には目をつむり、仲の悪いソ連との問題は授業で扱うのかよ」
と自分自身で鼻白んだものでした。そのくらい今とは状況が違っていたのです。

 平成というのは30年かけて東アジアの蜜月を終わらせた時代だったとも言えます。

 

【令和の外交はこうなる】

 外交というのは相手のあることですから「令和の外交はこうなる」と断定的な記述をすることはできません。
 特に世界の大きな旗頭である合衆国の大統領があれですから、明日の情勢ですら分からないのです。しかしそんな状況でも、確実に分かっていることも少なからずあります。

 その一つは「日本の令和年間は中華人民共和国の全盛期とほぼ完全に重なるだろう」ということです。ここ10年~20年が中国のピークで、やがて地獄のような少子高齢化が始まり、衰退の道を辿り始めます。
 もし中国がそうした興隆と衰退の道を出来るだけ穏やかに送ろうとすると、現在の強硬なやり方を変え、ある程度穏便な、普通の国のやり方に変えていくしかありません。あちらで衝突しこちらで戦っているようでは国内政治も覚束ないからです。
 その意味で、中国が一帯一路をどう進展させていくかはひとつの指標として慎重に見ていく必要があるでしょう。

 北朝鮮はこのままジリ貧の道を歩み続けます。
 世界は、韓国が言うように「北朝鮮の政権保障がなされ、平和と経済発展が進めば人権問題も自然に解決するはずだ」などとは考えません。もし核の完全放棄がなされたら、次に欧米の要求するのは人権問題の解消です。
 自由と平等と民主主義、それこそ体制保障と正反対のもので、結局北朝鮮は追い詰められます。

 ロシアは狡猾な貧乏人ですから当てにはできませんし、中国は、一昨年までさんざん顔に泥を塗ってきた相手ですから甘い顔をしてくれているのも今だけ。必要がなくなればさっさと見放すに違いありません。
 トランプのアメリカや安倍の日本が仲間になってくれるはずもなく、文の韓国は頼りにできません。

 何の成果もなかったように見える先日の朝ロ首脳会議も、実は金一族の亡命ルートと持参金の確認だったという話も、案外、的外れなものではないのかも知れません。

 一番予想がつかないのが韓国。南々問題、南々葛藤と呼ばれる国内対立をどう解消できるかによって、この国の未来は変わってきます。文大統領は積弊清算よってすべてを構築し直そうとしていますが、韓国の文化大革命が成功するようにはとても見えません。
 そこで日本は――。

 

【「東アジア」という視点】

 これだけ周辺の動きが激しそうだと日本は頑固に自らのやり方を守るしかありませんし、おそらくそうするでしょう。
 令和は動かないことによって日本が東アジアを主宰する時代になるはずです。

 私が現場の教員だったころ、「東アジア」という括りでものを見ることはほとんどありませんでした。
 しかし今は「東アジア」こそが、地理・歴史・公民のあらゆる分野で最も重要な視点になっているのです。

 

 

 

「日本の教育が世界を変えようとする」~令和はこうなる2

 令和になって確実に言えることのひとつは 外国人労働者が増えること
 そしてその子弟が学校にくること
 しかしそれは必ずしも悪いことではない
 子どもの教育を通して 外国人を日本に適応させることができるからだ
 きっとうまく行く ただひとつの不安要因を除きさえすれば
というお話

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外国人労働者が急増する】

「令和はこうなる」と確実に言えることのひとつは、外国人労働者の増加です。

 安倍首相は昨年2018年6月、経済財政諮問会議で「2025年までに50万人超の外国人労働者の受け入れを目指す」と発表し、今年4月からは改正入国管理法が施行されて、現在145万人と言われる在留外国人労働者が200万人になるのもそう遠いことではありません。

 その前提となるのは深刻な人手不足で、諸先進国、合衆国をはじめドイツ、イギリス、フランスといった国々も大量の外国人労働者を受け入れた上で今日の繁栄を謳歌しているのですから、日本もまたそうなるのは必定だったとも言えます。

 ただし、私などはその典型なのですが、古い人間の中には社会混乱や治安の悪化を心配する向きも少なくありません。
 外国人は犯罪を犯すというのではありません。しかし窮すれば貪するというように、日本人だって貧しい時代は常に犯罪と隣り合わせだったのです。外国人労働者を大量に受け入れてその対応に失敗し、不法就労が増加すれば危険な状況が生まれかねません。いやそれ以前に、文化衝突というものを考えるといかんともしがたい部分があります。


 イスラムのハラルや礼拝といった私たちが受け入れなければならないものも少なくありませんが、「郷に入らば郷に従え」の譬えのごとく、こちらのやり方に合わせてもらわなくてはならないこともたくさんあります。

 行政はそのための方策をたくさん打とうとしていますがそれだけでは十分ではありません。すでに大人になって労働者として日本に来る外国人を再教育する場はないからです。そこで注目されるのがその子弟です。外国人労働者とともに来日する子どもたちは、まだ教育の対象者です。

 

【日本の教育が世界を変えようとする】

 外国籍であろうとなかろうと、日本にいる子どもたちは当然学校教育の対象者として日本の義務教育学校に入り、そこで教育を受けることになります。

 1989年に国連で採択され日本政府も批准した「子どもの権利に関する条約」と、1990年に国連で採択された「すべての移住労働者とその家族の権利保護に関する条約」が、外国人労働者およびその子どもたちの学習権を保障しているからです。
 日本国籍を持たないこと、あるいは外国人登録がないことを理由に、就学を拒否されたり日本人児童生徒と異なった処遇を受けることは禁止されています。

したがって外国人労働者のすべての子どもは日本の学校で算数・数学、理科、社会を学ぶことになります。そして注目すべきは、同時に交通安全教室や避難訓練に参加し、道徳の授業を受け、児童会・生徒会の活動をしたり部活動に加わったり、環境教育や平和教育、保健衛生などの学習をしなければならない――つまり日本の子どもが日本人の大人になる教育に、一緒に参加しなくてはならないのです。
 こうした事情は私たちに大きな可能性を感じさせます。

 

外国人労働者の子弟が日本人になる】

 しばらく前にJBpressに

jbpress.ismedia.jpという記事が載りました。すでに有料記事の枠に入ってしまったので簡単には読めないのですが、趣旨はこんなふうです。

 現代の中国の若者は子どものころから日本のアニメの大きな影響のもとに育ってきた。つまり日本的な文化的素養を持って大人になってきた。
 一つひとつ心を込めた丁寧なおもてなし、相手の心情を察した細やかな思いやり、不都合な結果に関して他者を責めず自らの努力不足を問う自責の念、外面的な一律の基準で定められたルールに反すること以上に自分の内面の良心に反することを恥じる恥の文化・・・。
 もちろん日本人でもこれらの精神文化を徹底して生きている人間はほとんどいない。
 ただ、そういう姿を見れば素晴らしいと思うし、完璧ではないが、自らもある程度は実践している人が多い。
(中略)
 そんな日本の伝統精神文化への共感を心の中に抱く中国人が、10代、20代で旅行や出張で1~2週間日本へ行くと、その精神文化の中で生きている日本人の世界に初めて出会う。
 すると、無意識のうちに自分の心が素直にその周囲の日本人と共に動き出し、自分の心の中に育まれていた思いやり、おもてなし、恥の文化などへの共感が形になって現れ出す。
 アニメを通じて幼い頃からなじみ親しんだ心のかたちを共有する人たちと心地よい時間を過ごす喜びを味わっている自分に気づくのである。

 実はそういった現象は以前から知られていたようで、
 中国人が欧米に留学しても中国人のまま帰国するが、日本に留学した中国人は半分日本人になって帰国すると言われている
そうなのです。

 言うまでもなく日本の思想の源流には中国があり、日本アニメもその影響から完全に自由なわけではありません。つまり中国人と日本人には根底でつながるものがあって、だからこそ影響の受けやすさも劇的なのでしょう。

 しかしその分を除いたとしても、日本のアニメに強い関心と憧れを持つ人々なら、すべての民族が同じように影響を受ける可能性があります。フランス人もロシア人も、そしてその他の国々人々も。

 

【世界が日本になる】

 おそらく近い将来、学校は外国人児童生徒の教育、そしてそれを通じた在留外国人の教育の責務を背負うことになります。ひとことで言ってしまえば、日本に来たばかりの外国人にやたら細かなゴミの分別を強制することは無理だが、子どもを通じて環境教育の側面からそれを果たすのは可能だということです。
 さらにそうやって教育された外国人師弟が、大人になって帰国することを考えると、それは日本的文化の育成輸出という側面も持ちます。

「水は低きに流れる」と言い、「悪貨は良貨を駆逐する」とも言います。しかし可能でありさえすれば、人は穏やかに、
 一つひとつ心を込めた丁寧なおもてなし、相手の心情を察した細やかな思いやり、不都合な結果に関して他者を責めず自らの努力不足を問う自責の念、外面的な一律の基準で定められたルールに反すること以上に自分の内面の良心に反することを恥じる恥の文化
の中で生きる方がいいに決まっています。
 きっとうまく行きます。

 

【ただひとつの阻害要因】

 ただしそんな前向きで明るい夢を、簡単に打ち砕きそうな事実があります。
 次の記事です。

mainichi.jp それによると、
 日本の公立学校(小中高と特別支援学校)に通い、学校から「日本語教育が必要」と判断されたにもかかわらず、指導を受けられていない外国籍児らが全国で1万400人に上っている。
(中略)
 支援が行き届かない背景には加配教員の不足がある。開示資料によると加配教員は全国に2224人しかおらず、8396校の30%に当たる2491校は指導者がいなかった。文科省は日本語指導が必要な児童生徒18人当たり担当教員1人を増員するとしているが、1校当たりの外国籍児らの在籍数は「5人未満」が7割以上で、対策が追いついていない。

 無支援というのはどういう状態かというと、担任が自前のスマホの翻訳ソフトを使って、同じ内容を日本人児童生徒と外国人児童生徒に繰り返して言い、インタビューアーよろしく外国人師弟の間を聞きまわっているということです。家庭連絡はわざわざ自費で購入したICレコーダーに録音して渡します。
 それでも辞書と首っききで手紙を書いていた10年前よりはずっとマシですが。

 外国人労働者50万人増加計画で、学校のブラック化はさらに進みます。それだけが問題です。
(“それだけが”という言い方は、もちろん皮肉です。それだけでも大問題ですし、すべて台無しにしかねませんから)

 

 

 

「日本人は戦争の責任を引き継がない」~令和はこうなる1

 令和が始まって一週間 まだその姿は見えてこない
 
しかし「令和はこうなる」と言った予兆は数年前からあった
 
そのひとつは
 もう日本人は、第二次世界大戦の責任を引き継がないと心に決めた
 
おそらくそういうことだ
というお話。

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【大型連休明け。先生方、とにかく頑張ろう】

 長い、長い、長い、10連休が終わりました。
 例年のことですが、春の大型連休が終わると7月の「海の日」(今年は7月15日)まで2カ月以上祝日のない日が続きます。きちんとリズムよく日々が過ごせるとも、息つく暇もないとも言えますが、特に今年の場合、意欲に満ちた4月に躾けたこと習慣づいたことが10日の連休ですっかり流され、休み疲れのだらけ切ったところから間断なく頑張らなくてはなりませんからいっそう大変です。一年生の担任の先生など、今日一日ウンザリとした時間を過ごすことになるでしょう。
「も~、全部すっかり忘れちゃってるんだからァ~」
 まっさらなところから躾けるわけではないので、今週いっぱい、あるいは来週まで、ほんとうに大変かもしれませんが、よろしくお願いします。

 さて「令和」も一週間が過ぎて、そろそろ改元のお祭り気分も消えつつありますが、そのことは同時に、私たちが平成から抜け出て、次第に令和の気分に馴染んでいく過程でもあると言えます。
 しつこいようですが年号が変われば気分も変わる、そしてその場合、前後3年ずつくらいの移行期間があって、新しい時代の予兆はしばらく前から始まり、前時代を雰囲気は改元後もしばらく残ります。したがって「令和」がどういう時代になるのかのヒントはここ数年の中にたくさんあり、そのいくつかは新時代の方向性を明確に示しています。
 つまり「令和はこうなる」とかなり断定的に言えることがあるわけです。

 

【令和の予兆】

 その指標ひとつは、戦後最悪と言われる日韓関係です。
 言うまでもなく最悪となった理由のひとつは文在寅政権の親北反日政策そして関係悪化に対する不作為ですが、他方で安倍政権および日本側メディア、さらには日本国民の多くが今回に限って一歩も引かない強い態度でいるからに違いありません。以前のように日本が折れて収集という訳にはいかなくなっているのです。

 「最終的かつ不可逆的な解決を確認した」と書いた慰安婦合意や「完全かつ最終的に解決された」と記した日韓請求権協定が覆されてしまうと、これ以上の言語表現はもうないわけですからいかなる国家間協定も記述できない、多くの日本人はそのように考えています。日常的な表現で言えば、「もういい加減にしてくれよ」と言ったところでしょう。
 おそらくその感覚が、令和の日韓関係やさらには日中・日朝関係の基礎になります。

 小泉訪朝の際に秘密会議で約束したとされる北朝鮮への100億ドルの経済援助は別にしても、もう第二次世界大戦に関する補償も謝罪も一切しない、受け付けない。韓国も中国ももうとっくに先進国に仲間入りした成熟国家なのだから、いつまでも子どものようなことを言ってはいけない、どんなに責められても今後わが国が引き下がることはない――実際の表現としてはどうなるか分かりませんが、令和における日本の立場はそうなります。

 

【日本人は戦争の責任を引き継がない】

 韓国の保守系新聞である朝鮮日報は先月29日の社説でこんなふうに書いています。
 日本は第二次世界大戦前に生まれた明仁(平成)天皇天皇として活動した時代は周辺国に戦争の負い目を感じていた。(中略)だが、新天皇は違う。1960年生まれで、初の戦後生まれの天皇ということで、戦争体験がない。祖父と父が感じていた罪の意識からの自由な立場だ。だから令和時代は新天皇の個人的な立場とは関係なく、日本が第二次世界大戦のあらゆる負担から脱して今後歩んでいく初の時期として記録される可能性が高い。

www.chosunonline.com私も先月5日に
 「令和」の世になれば「昭和」はふた昔前の時代となります。前代の罪は引き継いでもいいが2代前までは背負いきれない――そんなふうに人々が思い始めるのも自然の成り行きでしょう。内外で戦時中に生きていた人たちが全員いなくなっても、私たちは第二次世界大戦の責任を担い続けることができるでしょうか?
と書きました。

kite-cafe.hatenablog.com 6年前に亡くなった私の父は1923(大正12)の生まれですから、1910(明治43)年の韓国併合の際はまだ赤ん坊ですらありませんでした。1931(昭和6)年の満州事変の際には8歳、日中戦争の始まった1937(昭和12)年ですら14歳。母は1927(昭和2)年生まれですからそれぞれ4歳・10歳でした。
 私たちの親世代は、そんな子ども時代に政府が戦争に突き進むのを止められなかった責任を、戦後ずっと背負ってきたわけです。

 その息子である私たちも、「戦犯国」の人間としてずっと責められ反省の気持ちを持ち続けてきました。戦争を止められなかった世代の孫である私たちの子、シーナやアキュラも同じ「戦犯国」の人間として、毎年「不戦の誓い」を新たにしてきました。
 しかし曽祖父の顔さえ知らない孫のハーヴや、さらにその子孫たちの代までもが責任を問われるとしたら、それは違うでしょう。

 

【時代は変わる】

 朴槿恵前大統領は「加害者と被害者という歴史的立場は千年の歴史が流れても変わらない」と発言しましたが、これはもちろん「信長が明智光秀に殺されたという事実は千年たっても変わらない」といった歴史的事実の確認ではありません。したがって千年の後までも責任追及の手を緩めるつもりはないのかもしれませんが、今回の改元で朴前大統領の言った「千年恨」はあっさりと裏切られてしまうはずです。

 それでなくても韓国のKポップスターは何の忌憚もなく大人たちの言う「戦犯国」でコンサートを開いて観衆ににこやかに手を振り、逆に日本のファンは何のこだわりもなく韓国に“追っかけ”に行ってしまうのが現状です。韓国人になりたいと本気で思っている日本の女の子までいます。彼らに「反日」「反韓」を持ち込んでも、迷惑がられるだけで何も響きません。

 世界中探したって、隣国どうしで仲がいいといった例はめったに張りません。陸上の国境で隣り合っている国どうしは伝統的に領土争いをしていますから特にそうです。しかし仲が悪いなりに、何とか調整し合って交際を続けています。

 令和の時代、東アジアで起こるのは、そうした「普通の国」どうしの外交関係でしょう。

 

 

「時を掴んで人を変える」~時代の節目「令和の誕生日」に思うこと

 学校の登校日に合わせて書いているこのブログ
 10連休も一緒に休むつもりだったけれど
 改元の雰囲気が これほど盛り上がるとは思わなかった
 これを見過ごしてはいけない
 やはりこの機会にひとこと書いておこう
というお話

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【単なる時の変わり目が、人々の意識に特別な意味を付与する】

 以前から繰り返し申し上げていますが、日本では年号が変わると時代が変わります。人々の考え方や歴史の動かし方が違ってくるのです。

 海外も同じで、西暦を使う国々では大きな節目と言っても100年を単位とした世紀末と新世紀の間しかありませんが、それでも20世紀末の2000年にはロシアで宇ラジーミル・プーチンが大統領になりフランスで超音速機コンコルドが墜落し、21世紀最初の2001年にはアメリ同時多発テロがあったことを考えると、世紀を更新することでひとつの時代が終わり、新しい時代の始まることを思わずにはいられません。
 100年遡れば1900年は義和団の乱(清の滅亡の始まり)。1901年はヴィクトリア女王崩御(イギリスの凋落の始まり)です。

 もちろんこれらの事件はイエス・キリストが10年か20年早く、あるいは遅く生まれているだけで世紀末・世紀始まりの事件としての意味を失ってしまいますが、たまたま世紀の分かれ目に位置してしまったために、特別の意味を付与されたものなのかもしれないのです。

 つまり、たまたま世紀末に起こったがためにたった一機のコンコルドの墜落が超音速旅客機の開発の息の根を止めてしまった、たまたま新世紀直前の当選だったためにロシア国民はKGB出身の恐ろしい男を新時代のエースとして受け入れてしまった、そして新世紀最初の年の事件であったために、21世紀の主催者を自任する合衆国は「テロとの戦い」を始めてその引き際を見失ってしまった、そういうことなのかもしれないのです。

 

【令和の誕生日の浮き立つ雰囲気】

 年号は百年紀に比べると短い期間で更新していきますが、それだけに「昭和生まれ」だとか「平成生まれ」だとか世代をひとくくりにするのに楽な概念です。気分も雰囲気も、コロコロと転換しやすいと言えます。

 前回の平成への改元は、覚悟はしていたとはいえ昭和天皇崩御に伴って行われたものであり、自粛ムードがあまねく広がったためにとてもではありませんが「お祝い」という雰囲気にはなりませんでした。「ワクワク」とか「ソワソワ」とか、あるいは「ドキドキ」といった感じもまるでなかったのです。

 ところが今回の改元は平成天皇生前退位に伴うもので、今日の改元は1年半前に予告され、「令和」という新元号も1ヵ月前に告知されてしました。直前まであまり見えていませんでしたが(と言うのはテレビは「10連休をそう過ごすか」と言った話ばかりだったからです)、国民の受け入れ態勢は万全で、多くの人たちが「行く平成」に思いを凝らし「来る令和」に希望を託していたのです。

 平成駆け込み婚や令和の出発婚、平成感謝セールに令和スタートセール。渋谷・新宿を始めとする各地各所におけるカウントダウン・イベント。寺社が記念写真用に小さな「平成額」「令和額」を用意したといった小さな配慮まで含めると、日本全体で大きなエネルギーの動きがありました。
 小さな子どもまでが「平成が終わって寂しい」「令和はいい時代にしたい」とインタビューに答えられるほどの今回の盛り上がり――つい最近まで、世の中は「10連休には興味はあっても改元にはさっぱり関心がない」という雰囲気だったのに、実はものすごくたくさんの人たちが、「これを機会に変わろう」「生まれ変わろう」「生きなおそう」と感じていたのです。

 

【私たちは生きなおす】

 おそらく日本人はそうした「生まれ変わり」「生きなおし」が大好きな民族なのです。

 卒業式はまだしも、入学式というものをあれほど派手にやる国はそれほど多くないでしょう。各学期の最初と最後にいちいち始業式・終業式を行う国もないと思います。私たちはそれを「けじめをつける」行為だと考えていますし、そうすることによって次の時期・時代・場に自分を置き直す助けとします。

 学校の教師が毎年年度初めに目にする光景も同じものです。
「小学校に上がったのだから」「中学生になったから」
 2年生になった、3年生に進級した、いよいよ4年生だ――そうした意識は、児童生徒のあり方を大きく変えていきます。

kite-cafe.hatenablog.com 
 そしてその瞬間をうまくとらえる教師こそ、一流の教師です。

 

【後悔しなくて済むこと、そして予告】

 時々あることですが、今日も私はつくづく、
「ああ、現場の、現職の教師でなくてよかった」
と感じています。

 なぜなら先週金曜日に、
「テレビを見ていると10連休をどう過ごすかという話ばかりだけどやはりここは行く『平成』を惜しみ 来る『令和』を想うってことじゃないか?」
と書いた私は、世間の趨勢をすっかり見誤り、「平成」から「令和」に替わる、つまり児童生徒が大きく生まれ変わるチャンスを、みすみす見逃していたに違いないからです。
 週明けに悔し涙を流すくらいの気持ちでホゾを噛んでいる自分が目に浮かぶようです。

 でも仕方がない。
 もし現在、学級担任なら、まだ5日ほどあります。今から丁寧な原稿をつくり、大型連休明けの7日の朝の会での話と、それを受けて行う週明け最初の「道徳の時間」に、年号の変わる意味を話し、生まれ変わりの幇助をするしかないでしょう。
 連休前にタネを蒔いて明けに収穫するくらいのつもりでやっていれば、エネルギーも半分以下で済んだのに――そんなふうに思います。

 令和の誕生日。今夜は私も祝杯を上げましょう。


 さて、いよいよ始まった令和。
 私にはそれが、
 こういう時代になるだろうと確信めいたことがいくつか、
 こうなるのではないかという恐れや心配がいくつか、
 そして、こうなってほしいという願いがいくつか、あります。
 連休明けにはそのことを書いておこうと思います。